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心と社会 No.168
巻頭言

時代の流れの中で

牛島定信
公益財団法人日本精神衛生会前理事長

 障害者枠という言葉を耳にすることが多くなった。精神障害者の社会復帰活動を推し進めるシステムを形成していく過程で登場した概念である。それだけに、患者の社会復帰を促すという意味ではひとつの武器となっていることは間違いない。ところが、最近、この概念をめぐって首をかしげたくなるケースも散見するようになった。

 24歳の男性は、大学の相談室でなされた発達障害の診断の下で学園生活をおくり、卒業後の治療の場を求めて受診した。詳細は省くが、どう考えても発達障害に該当しないと考えた筆者がその旨を告げると、患者は馬鹿にされたとばかりに烈しく怒り、席を蹴って退室し、受付でも罵詈雑言を浴びせて帰ったという。遣り取りのなかであきらかになったことは、彼が発達障害者として障害年金を得て、障害者枠での就活をし始めたばかりだったということである。筆者が短慮に過ぎたということであろうか。

 また、5年ほど統合失調症の診断で治療を受けてきた27歳の男性はセカンドオピニオンを求めて受診した。大学のゼミで教授と上手くいかずに落ち込んで精神科を受診したが、その時、高校時代にあった幻覚妄想のエピソードを打ち明けたことが診断のきっかけだったという。その幻覚妄想とは、自分を好きになっている女性がおり、二人の仲を仲介してくれそうな女友だちがいて、その友だちが動くことで周辺に知られてしまい、自分が噂の種になっている、つまり周囲に噂されるようになったということである。その中で、一人部屋でベッドに就いていると、家の周囲でその噂をする声が聞こえてきたので戸を開けて外に出ると、みんながさっと身を引く空気を感じ取ったというエピソードもあった。この幻覚妄想から統合失調症の診断をされ、その治療を受けてきたのであった。しかし、いろいろ確かめてみると、この幻覚妄想は、偽幻覚であり、二次性妄想であると判断せざるを得なかった。そして、目の前の患者の人格の様態を確認しても、解体した行動障害や思考障害の様子はまるでないのである。そのことから、統合失調症というより、青年期の精神発達の挫折を現在に引きずる病態であろうと考え、その旨を説明し、返書を持参させたのであった。2週間後に再度受診した患者によると、その返書をみた担当医はひどく怒って統合失調症に間違いはないと云ったという。しかし、患者本人はここで担当医が勧める障害年金をとり、障害者枠での生活(就活その他)を追い求めるべきかの相談をしたいのだとも云うのである。そこで筆者は、いずれの診断であろうとも、健常者として生きるか、障害者として生きるかは自分で決めるものであると告げた。すると、患者はここに通いますと云って退室した。

 この時、筆者が気になったのは20世紀の精神医学の主題でもあった近代的自我(フロイトや森田)、自我同一性(エリクソン)が姿を消しているということである。

 そんな考えの中にあった筆者に歌舞伎を鑑賞する機会があった。その出し物のひとつに「引窓」という親子、兄弟間でそれぞれに義理と人情が交差する世話物があって、ひどく心を動かされたのであった。主筋の義理で人を殺めてお尋ね者となった相撲取りの濡髪潮五郎は、南与兵衛の家に住む母お幸を訪ねる。実は潮五郎はお幸の実子で与兵衛は先妻の産んだ子。そこへ代官に取り立てられ、十次兵衛を名乗ることを許された与兵衛が家に戻ってくる。しかし喜ぶのも束の間、与兵衛に命じられた初仕事は潮五郎を捕縛することであった。実子と義理の息子の間で苦しむお幸をみて心を痛め、義弟に対する情愛と義理の狭間で心を砕く与兵衛の姿は親子・兄弟の間を烈しく行き交う心理的静止画と云ってよかった。現代社会のスピーディな人間模様とはほど遠い私たちの心の故郷といってよいだろう。それぞれに苦悩に共感し、背後で流れる愛情の深さに感動する観客からは声ひとつ聞こえないが、みんながその人間模様に浸って共感していることは間違いなかった。人の人生には、自我の形成とともに、それを傍から支える親子・兄弟の絆があるのだと実感したのであった。現代の精神医学では、この自我形成、家族の絆が我々精神医療従事者の視野から消えてしまっているのではないかと思えてならなかったのである。

 こうした精神医学の起点はDSM-V(1980)にあることは間違いない。そして、38年が過ぎた、つまり、1980年に精神医学を志した精神科医はすでに60歳を超している。その間、脳科学の急速な発展と統一された診断基準がもたらす科学的データ(エビデンス)とを基盤にして、システム化された治療実践が広く行きわたっている。それを受けて、精神疾患は、まず薬物で症状を調整し、出来るだけ早い時期に社会復帰訓練を行って社会的自立(リカバリー)を図ることが求められるようになった。それを支えている法的システムが障害年金であり、障害者枠である。その過程で、生活費を自分で稼ぐ社会的自立が親からの情緒的自立にとって代わったということであろう。

 ただ忘れてならないのは、これら人間性の消失は何も精神医療の中だけの問題ではないということである。科学技術が急速に進歩し、科学的思考が浸透している新しい文化的潮流を背景にした人の生き方が変わってしまっていることを考えておく必要がある。科学技術の進歩によって、機械が巨大化し緻密となって男性から労働の意義を奪ってしまった。田畑の耕運機のみならず、土地の開発でのブルドーザーの活躍は日常茶飯であり、自動車、電車、飛行機、造船は物流の、あるいは人の流れを一変させた。また、高層ビルを始めとした建造物は地域社会の様相を、人の生活のあり様を一変させた。これとともに、女性の生き方も一変した。一人、家に籠って家事に、育児に専念する存在だけではなくなった。子どもの人格の成長に直接的に影響する家庭内の変化もまたよく指摘されている。その結果、「安価で画一化された商品・サービス(コンビニ)に依存した生活を強いられ、監視カメラとデータベースを統合したセキュリティー・システム(いつ、どこでも監視される自己像)に嵌り、超国家的組織(EU、国連など)が人間を支配するという社会機構が人間をパラサイト化するというグローバリゼーションの世界を造り出すに至っている」。さらにまた、科学的思考(自由、平等、人権)も急速な変化を遂げている。1960年安保闘争で若者の間で高らかに謳われた資本家と労働者の平等という観念は、M・フーコが、正常(規範性)から逸脱する者(狂気、アウトロー、教育を受けていない者、同性愛者など)を我々の範疇から排除している構造を描いてみせたのを受けて、新自由主義と呼ばれる思想の世界となっている(中正昌樹:ポストモダンの正義論)のである。

 いわば、私たちはコンピューターが弾きだすデータ(エビデンス)に頼った、あるいは支配された生活を強いられている。個人生活の観点からみると、如何にも生き辛い世界が展開していることにも注目したい。アメリカのトランプ大統領の登場、英国のEU離脱の動き、そして世界各地で台頭する極右政党は、上記の新自由主義、グローバリゼーションと無関係でないことはご同意いただけるのではないかと思う。

 そうした新自由主義と科学の進歩がもたらすグローバリゼーションに抗う力が市民ファースト、自国ファーストとするならば、我が精神医学の領域でも、新しい文化的潮流に抗う力が台頭してきてもよいのではないか。そんな気がしてならない。先の二つのケースが治療者である筆者の心の中に惹き起こした混乱は、この新しい精神医学の潮流に抗う力の断面ではなかったのか。そう思えて仕方ないのである。

 

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