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心と社会 No.182 2020
巻頭言

精神科学とは

村上陽一郎
豊田工業大学大学次世代文明センター長

 正直に書こう。私は「精神科学」という言葉に、違和感を持っている。そのことを、少し説明してみたい。

 ここでは、どうしてもデカルトに登場して貰わなければならない。と言っても、さして難しい話ではない。誰でも知っているように、デカルトは『方法序説』という書物の中で「我思う、ゆえに、我在り」と言明した。このフレーズの言いたいポイントは、実に明確である。彼は、この議論に移る前に「もの」というものの特性を「(空間のなかで)広がりを持つ」ことと規定した。目の前のみかんは確かに「もの」の一種であるが、それは、眼の前の空間の中に、七センチほどの直径で、四センチほどの高さの広がりを示して存在している。デカルトは気付いていないが、このとき、「広がり」(ラテン語の〈extentio〉が使われる)は、空間的であると同時に、時間的であることも必要ではないか。みかんが、今この瞬間だけ、空間のなかに「広がり」を持っていたとしても、我々は「空間的な広がり」を見て取ることはできないだろう。この「瞬間」は、「瞬きをする間」ではなくて、純粋にある特定の「時刻」という意味である。瞬きをする僅かな「間」でも、時間的な「間」があれば、それは「もの」として認めることができよう。

 さて、このようにして定義された「もの」は、原理的に人間(別段人間でなくとも、超人間でも、他の生物でもよいのだが)は、感覚を働かせて、その存在を確認することができる。みかんは、眼で見てもそこにあるし、触ってみても、存在は確かめられるし、なんだったら叩いて音を聴いてもよいし、剥いて味わってもよいだろう。とにかく、そこに「もの」がある、あるいはあった、ということは、いやしくも何らかの感覚を備えたエージェントにとっては、その存在を確認できる、と考えられる。その意味で、その存在は「客観的」と言える。

 ところが、というのが、デカルトの論理の進め方である。次にかの有名な「我思う、ゆえに、我在り」がやってくる。原本はフランス語で書かれたから、もとはフランス語だが、ラテン語としての〈cogito ergo sum〉の方が知られている。ここでの「我」の存在は、先に定義した「もの」の存在とは全く違う。この立論は大切だから、少し長いが原文を引用してみよう。

 どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。中略 これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしを今存在するものにしている魂は、身体(物体)からまったく区別され、しかも身体(物体)より認識しやすく、たとえ身体(物体)が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(谷川多佳子訳、岩波文庫から)

 デカルトはここで、「もの」とは全く次元の違う「存在」の様式があること、それは「もの」の世界から、完全に切り離された別次元の存在であることを主張している。それが「考える」ことであり、別の言葉を使えば「魂」であり、我々の言葉では「こころ」であり「精神」ということになる。

 勿論デカルトが実証したのは、〈cogito〉であり〈sum〉である。どちらも第一人称単数現在である。デカルトの弱点はここにある。第一人称単数(われ)で、あれほど明証的であった、「もの」とは完全に独立した「こころ」は、しかし、第二人称、第三人称になると、全く置き忘れられてしまう。デカルトの親友メルセンヌに関して、デカルトが〈Mersenne cogito ergo sum〉と言ったとすれば、それは、本源的に間違いであって、〈Mersenne coitat ergo est〉と言わなければならないが、しかしこの命題の方は、デカルトと雖も決して実証することができない。メルセンヌ自身は、〈cogito ergo sum〉と言えるかもしれないが、それを言えるのはメルセンヌ自身だけであって、デカルトが客観的に、その命題を明証化することは、永遠に不可能である。

 デカルトは別の論点から、人間一般に関して、「もの」と「こころ」の二元性(心身二元論)を明らかにし得た、と考えているが、厳密に言えば、この考えに決定的な援護はない。つまり、「こころ」としての存在は、「われ」に限って明らかだが、他者はすべて「他物」として扱うことが可能であり、というよりは、デカルトの立場からすれば、そうせざるを得ないことになろう。別の表現を使えば、「われ」を除いた世界のすべては「もの」の世界として扱うことが可能である、いや、そうならざるを得ない、ということにもなる。そして、ヨーロッパが近代以降少しずつ積み重ねてきた科学的思考は、まさしくその立場をとる。少し大胆に言えば、「科学とは、デカルト的な〈もの〉の世界において、〈もの〉が如何に振舞うか、を追求する営為である」ということになろうか。この科学の定義を採った瞬間、「精神科学」は決定的な語義矛盾に陥るのは明らかだろう。

 無論人間は、これだけの考察で、すべてが終わるわけではあるまい。英語に言う〈sympathy〉や〈compassion〉などの言葉が示すように、人間は、他者の〈pathos〉を、わが身に「分け持つ」ことができる、と信じることのできる存在である。その領域は、WHO(世界保健機関)における健康(well-being)の定義に、〈spiritual〉を加えるか否か、という議論のあった問題にも通じる。現在の健康の定義は〈physical, mental and social〉となっているが、それに〈spiritual〉を加えるべきでは、という提案が会員からあったのである。まさしく、この〈spiritual〉は、「精神」の世界であり、科学が扱う範囲を超えた領域になるだろう。

 精神医学は、必然的にこの世界に踏み込まざるを得ない。そして、その意味では、医学が科学的な根拠に基づくべき、という意味を籠めて〈EBM〉という概念が喧伝されて久しいが、それが誤っているわけでは勿論ないにしても、医学に科学を越える世界を認めない限り、医療は成り立たないのでは、と考えるものである。

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