中越学校メンタルヘルス研究所 井上 惠 5.学校メンタルヘルスにおける教師の役割 この稿を依頼された時、私の頭に浮かんだのは、「秋葉原事件」「血盟団事件」そして「無知の涙」です。また格差を徒に拡大させない思想としての「パレンスパトリエ」も想起しました。 それでは「格差」とは何でしょう?「格差社会」とは「何の格差」なのでしょうか?格差の定義をここで論ずる紙幅はありません。が、そもそも人間はエロス的存在です。すなわち「他とは違う唯一無二の自分」を希求する存在です。しかしそれが価値観のフィルタ−を通ると、いじめや差別になり、いわゆる格差の温床となるでしょう。しかし、もし「格差が全くない」という究極の状態が実現されたら、おそらく人は「自分が自分である感覚」を得られなくなります。 良心的な教師は、実は「格差を嘆いてそこで思考をやめる」ことはしません。良心的な教師は、貧困や障害を抱えた子どもがいても、それを一次元の線上に載せて、つまり「他との差を際立たせて」理解しよう、とはしないものです。すなわち「”格差”のことは脇に置いて」、それぞれの子どもの「あるがまま」からまず出発します。それまで生きてきた時間の積み重ねや背景、今現在の状況をまるごと受け止めて、その子どもにとっての「教育」を模索します。その意味で、教育は究極においては非常に個別的なものであると私は思います。ある意味で独立していて排他的なものです。しかし、これはパラドクスになりますが、個別的な教育は個別的には達成し得ません。まったく個人対個人の教授では、教育にならないのです。それは人間が社会的存在であり、他との関わりを抜きにしては生きてゆけないからです。 学校教育では、「集団の中で個を育てるシステムを如何に機能させるか」が要諦です。しかしながら、ひょっとして格差に注目するあまり、存在して当然である子どもの差違に過剰に敏感になり、「みんな同じに、みんな一緒に」としていたら、おそらく人間のエロスは枯渇するでしょう。それは教育から最も遠い営みになります。 私は今、「子どもに対して良心的であろうとする教師」を後方支援する取組を細々と続けています。それはカントの次の言葉の実践を願っているからです。 カントは遺しています。「善き教育こそあらゆる善事の源である」(北御門二郎による) そうです。格差があろうとなかろうと、教育が出来ることは必ずあります。どんな子どもであっても「その子にとっての教育をあきらめないこと」こそ、「格差を哀しい格差のままとしない」王道であると思います。 最後にカントの言葉の元となったと思われるドイツの古い諺を記します。 Der Mensch kann nur Mensch werden durch Erziehung. 参考
1.はじめに |
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