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心と社会 No.117 35巻3号
巻頭言
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近頃どこか違うなと感じること
最近、「全般性不安障害」「社会不安障害」など、わが国での伝統的精神医学では使われなかった「病名」がしきりに耳にされるようになった。どうもこれらの用語は日本語として生硬だし、不安神経症とか、対人恐怖症などの古い呼称の方がずっとこなれているような気もする。しかしもちろん、これらの名称は米国の操作的診断基DSM-IVや国際疾病分類ICD-10に記載された公式用語であり、わが国の精神医学が国際標準化したことの反映に違いなく、けっして流行に乗った言い回しというものではない。
問題はこれらの呼称の扱われ方である。これは「精神分裂症」が「統合失調症」に変更されたのと違って、「単に呼称を変えた」というだけのことではないようだ。「今までまともに病気扱いされてこなかったけど、本当はこれって深刻な病気なんですよ」といったニュアンスで、まるで新たな脳の病気が発見されたかのごとき言い方で語られる場面が目立つ。そして、それと合わせて「これにはよく効く薬があるんです」という表現がまるで枕詞のようにつけられていることが多い。
典型的なのは社会不安障害の薬物治験の募集広告である。「『会議で意見を言ったりする』『多くの人の前で歌を歌ったりする』『来客を迎える』、このような場面で強い不安を感じたり、避けたりして、あなたの日常に支障をきたしていれば、社会不安障害という病気かもしれません。この病気は治療できるかもしれません」などと書いてある。一般向けの啓発書にも、はっきりと「これは病気です。治療しないといけない」という意味のことが謳われている。このような「啓蒙活動」の影響で、小生の外来にも、「これまでの医者は私の病気を見逃していた。社会不安障害という脳の病気だったんだ。これで私が苦しんできた謎が解けた。この脳病の治療をしてくれ」という感じのことを言ってくる方が増えてきた。
確かに、これらは従来の精神医学の中では、精神病との対比において「軽い病態」として扱われてきたきらいがある。それに装いも新たな名前をつけて、薬で治療できることが科学的に証明された(つまり、エビデンスが得られた)と言われると、「病気の新発見」を称えることも無理からざるところである。しかし実際には、これらの病態(不安神経症・対人恐怖症)の治療論はすでに古くから展開されている。もちろん薬物に一定の意味があることも分かっていたが、治療の力点はどちらかというと精神療法に置かれ、薬物療法は主役として重んじられてはこなかった。何も最近になって、そのような実態が変わったわけではない。事実関係を言えば、「社会不安障害(全般性不安障害も同じ)」の名のもとにある種の薬(主としてSSRI)で無作為割り当て治験が行われ、有効性が論文化された、というだけのことである。これに対して、「対人恐怖症」という病名では無作為割り当て試験が本格的に行われていないので、その有効性にエビデンスはないということになる。これらの事実がどこかですり替わって「社会不安障害という、薬がよく効く病気が発見された」となったわけだ。もちろん、とりあえず薬を出しておけば多少症状が軽くなるんだからいいじゃない、という見解もあるだろう。しかし問題は「薬が効く」ということがさらにすり替わって、この病態がすべて「脳モデル」で説明できるかのごとき風潮が蔓延することである。たとえば、ひどく内気で、閉じこもりがちの青年がいる。DSM-IVの症状項目に該当するかどうか、チェックしてみた。これは社会不安障害である。前頭葉機能の問題かもしれない。セロトニンがうまく働いていないのだな。早く手遅れにならないうちに何とかしないと・・・。こうしてSSRIが処方され、ある程度不安は和らいだが、青年は自分の性格への内省も、どうやったらそれを生かすことができるのか、考えることはしなくなった。あるいは全般性不安障害のケース。「行き過ぎた不安は病気です。いい薬がありますから、早く治療しましょう」と言われ、何をなぜ悩むのか、それはいつか忘れて、考えるのは全般性不安障害という病名のことばかり。SSRIを飲み続け、悩みのない人生を夢見て暮らす。
これは多少戯画化して極端に書いたが、もしこれ的な気運が広がるとすれば、これこそ精神医学への幻想、いや乱用と言うべきであろう。DSM-IVはあたかも人間の悩みの全てに名前をつけたかの感があるが、それは人間の悩みが全て分かったということを意味しない。操作的診断と言われるように、あくまで説明のための仮押さえをしただけのことなのだ。そのことをよく理解して、うまく使ってほしい、という意味のことがDSM-IVの序文にもしきりと書いてある。しかし一般社会ではこれを浅薄に取り込んで、第I軸診断基準に当てはまるかどうかのみに関心をもつ。第I軸をフィルターにして、そこから「病気」「治療」という抽出物しか得ないとしたらDSM-IVが泣くであろう。そのようなトレンドに精神科医が手を貸すことのないよう、我々も自戒すべきではないだろうか。具体的に言えば、DSM-IVの多軸診断をできるだけ活用し、多面的な人間像を浮かび上がらせること。I軸を用いて行われた治験の結果が病態全体を代表するかのように錯覚しないこと。特に神経症圏の治療は医学モデルだけでは片付かないことを知る。そうすることで、社会不安障害や全般性不安障害の治療論にも広がりが出るのではなかろうか。
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