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心と社会 No.99 31巻1号
随想 |
ブリーフサイコセラピーの実践
山田秀世 大通公園メンタルクリニック
病院を離れて、町の中心にクリニックを開業して2年余になる。受診患者は精神病圏よりも神経症、軽症うつ病が中心となり、現代社会の諸相を色濃く映し出した問題や治療者自身の人生観を問い直させられるような「生きる」ことに関連した苦悩を相談されることも少なくない。こうした患者を診察する中で、当然のことながら、筆者の治療者としてのスタンスも少なからず影響を受けるようになった。
まず、来院する患者を選べないという状況があるので、上記のような典型的な患者群の他に、さまざまな依存症や摂食障害、PTSD、幼児から老人までの幅広い病態、状態像への万遍ない対処をも余儀なくされる。しかも、限られた診察時間内で一定の治療効果を上げなくてはならない中で、必然的にブリーフサイコセラピーを治療の基本ソフトに据える結果となった。
ブリーフサイコセラピーとは、催眠療法家ミルトン・エリクソンの考え方と技法を基盤にして発展したもので、いくつかの流派が存在している。それらに共通するいくつかの特徴としては、患者のもっている内的・外的資源(症状や欠点すらも)を最大限に活用することや、過去よりも現在、未来を志向していて、原因や病理よりも肯定的側面や小さな変化を重視すること、単純な因果論でなく相互作用論に立脚した視点などである。
その中にあって、治療効果と実用性の両面から、ここ数年、一躍脚光を浴びているのが解決志向型のアプローチである。これは、技法・考え方ともに、従来のサイコセラピーの定石から少なからず、かけ離れているだけでなく、診断をつけた上で、病巣部を取り除いたり、適切な薬物を投与するという古典的な医学モデルの原型をも踏み越えている。原因や問題のことは、ひとまず棚上げしておいて、解決した状態のイメージをどんどん作り上げてゆくやり方である。その中で、症状や問題は自ずと消失に向かうというもので、問題の消失と解決の構築は別領域で生じるという仮説に依って立っている。それは、一般科学的な説明では無理の多い、人間の内的な側面の「変化」という現象に鋭く切り込んでいるように思われるのである。
解決志向型のアプローチは、百花繚乱の目新しい治療技法の中の一つというよりも、言語という媒介を通じて患者の問題解決の援助をする際の、効果的かつ基本的なフォーマットともいうべきものである。ここで、考えてもらいたいのは、特にロジャーズ派や分析派の治療者でなくても、「こういう点でお困りなんですね」というような形で示される治療者の共感的な姿勢と問題点を明確にして返す治療者の受け応えは、なにも特別な技法でもなく、悩みを聴く仕事に就く治療者すべてにとって基本中の基本となっていることである。
これと同様に、解決志向型のアプローチは、その背景をなす考え方から見て、原則と寄る辺なき現在の精神療法にとって新しい道標となるのではないかと筆者は考えている。そのフォーマットには具体的な質問項目が簡潔にわかりやすく挙げられていて、臨床的に大変使いやすいものに整備されている。それが、普及に役立った反面、安易に誤用されやすく、軽薄な印象を与えて誤解を招きやすいのが難点だが、要は治療者各自が、この基本フォーマットを踏まえて、個別の事例の中で状況に即して、いかに工夫しながら運用してゆくか、なのであって、第一人者のインスー・キム・バーグが述べているように「解決志向型のアプローチは、シンプルではあるがイージーではない」のである。
次に、これを具体的に筆者がどんなふうに用いているのかを少し紹介してみたい。
たとえば、不倫関係にあった妻子ある男性に捨てられて、身も心もボロボロの状態で来院した女子大学生がいたとしよう。この女性に対して、「この悩みが完全に過去のものとなって乗り越えているのは、あなたが何歳のときだと思うか」と問い、その後、「80歳のシワシワのお婆ちゃんになっても、『わたしゃあ、あの男のせいで……』なんて毎日泣き明かしていると思いますか」と尋ねるのである。涙に暮れている患者であっても、その瞬間、思わず笑い出すようなことが少なくない。
この反射的に出る一瞬の笑いの意味を考えてみると、浦辺粂子調の口ぶりの筆者の芝居がかった問いかけに思わず吹き出したという面も一寸はあろうが、それだけではない。いつかは、必ず乗り越えられるに違いない、まさか、こんな恋愛の悩みを50年以上も背負い続けた話なんて聞いたことがない、そんな馬鹿な……という至極当然の事実を再認識した安心感ゆえに生じた笑いである、ともいえるだろう。
ところが、患者たるもの、この当然の事実がスッポリ頭から抜けているからこそ精神科の門を叩くのである。その証拠といえるかどうかわからないが、笑った直後に患者が口にする「笑ったのって何ヶ月ぶりだろう」という発言を筆者は何度耳にしたか知れない。このようにして、解決がスタートするのである。
50年経った後でも、現在と同じように苦しみ喘ぎ続けているはずだ、と言い張る患者は稀であると思う。それでいて、この悩みから到底抜け出せそうにない、という想いもまた患者にとっては真実なのである。そして、苦悩が大きければ大きいで、それほどまでに大変な苦境を、今日来院するまで、いったいどのようにして耐え抜いてきたのか、何が支えとなってきたのか、という、これまた患者の意識からは抜け落ちていたであろう彼らの潜在力に焦点を当てて会話を進めてゆく。また、症状や苦悩の渦中にあって、それらを忘れて日常的に生活している時間などは、ごく例外的であるという患者の状況を、そのわずかな例外状況の端緒を捉えてどんどん増幅させてゆき、問題に苛まれているのが逆に例外状況であるように導いてゆくのである。
以上、解決志向型アプローチの一端を私なりに説明させてもらったが、その効果的かつ簡潔で実践的な諸技法の詳細については、ぜひ、成書を参照していただきたいと思う。
次に、ブリーフサイコセラピーの中でも、超ブリーフで、しばしば、数年来の症状も数回、ときにはシングルセッションで解決してしまう、というちょっとアヤしい治療法について述べておきたい。EMDRとTFTである。その驚異の治療効果については、もはやオカルト扱いはできないまでに臨床的な成果を積み上げつつある。特に、EMDRは実際に治療に用いてはいなくても、阪神大震災でのPTSDの治療報告などで、既に御存じの方も少なくないだろう。
EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)は、過去の否定的な体験を想起させながら、治療者が患者の眼の前で指を左右にリズミカルに20回前後動かすのを追視させ、肯定的な自己認知への置き換えや身体感覚のモニタリングを織り混ぜたりしながら、それを何回か反復するという簡便な治療技法である。この刺激によって、脳の情報処理過程が活性化され、本来患者に備わっている治療機転が働き始める……などと既存の心理学の用語を巧みに用いて、それらしい説明が一応なされているものの、詳細な治療機序はもちろん不明である。
筆者も、ずっと以前のことだが、反応性のうつ状態で入院した患者にEMDRを適用し、軽い躁転を起こされて、わずか5日で退院になってしまった例(本人には長く感謝されたが)を含め、劇的に改善した例を何度か経験していて、身体の動きを用いた働きかけが、精神内界や中枢神経系に大きな影響を与え得るのだ、ということを思い知らされたりしている。
次にTFT(Thought Field Therapy:「思考の場」療法)については、これも、意表をつかれるような治療手順もさることながら、治療機序の説明に用いられる用語が、ほとんど独自に定義されたものであるために、その内容が旧来の心理学用語では説明できないこと、それに開発者のロジャー・キャラハンが、既存のサイコセラピーの無力さを露骨に愚弄したがために、彼は結局、米国の心理学の学会から追放されたという。
わが国では和歌山在住のユニークな小児科医であり臨床心理士でもある高崎吉徳氏の尽力によって、ようやく普及し始めたところである。筆者の経験では、TFTは、そのアヤしさに対して患者のみならず、治療者自身が抱く「こんなことでホンマに効くんかいな」という一種の猜疑心がほとんど唯一の難点である。
副作用はほとんどなく、外来診療でも簡単に使えて、患者が自分でも随時に使える等の数々のメリットをもっている。技法をごく簡単に説明すると、身体の経絡に対応するいくつかのツボを、疾患や症状等に応じて定式化された順序に従って、患者自身の指で5〜10回ずつタッピングして、眼球をあちこちに動かしたり、ハミングしたり……これがアヤしさの内容である。
さらに上級クラスになると、TFT診断というキネジオロジーを用いた、例の「0−リング」類似の技法も登場するに及び、アヤしさが一段と加速する。治療効果を優先することは、ある面、自らの猜疑心との戦いであるとも教えられるのである。筆者の診た患者では、他の医院での薬物療法で長く改善しなかった喉頭部違和感が1回のセッションで完全に消失したり、パーキンソン症状の老人の身体症状が一時的であれ、かなりの改善を示したり、と不思議な効果を何例かで経験している。
しかし、筆者が最もよく用いているのは、パニック障害等の発作性の障害に対してである。頓服用の薬や逆説指示等と併用して、発作という「テポドン」が飛んできたときに、それが着弾する前に、迎撃ミサイルとしての「TFTパトリオット」を発射して撃ち落とせばいいのだとムンテラしている。そうすると、「備えあれば憂いなし」で逆にテポドンは飛んでこない……たとえば、こんな具合に治療の中の一部に組み入れて利用している。
以上、従来のサイコセラピーの意義が新たに問われかねないことから、パワーセラピーという治療技法群にさえ分類されるEMDRとTFTについて、ごく簡単に触れた。
先述の解決志向型アプローチと同様に、EMDRであれ、TFTであれ、何によらず特定の治療技法への過剰な思い入れ、ないし絶対的帰依は、治療方針の硬直化や患者各自のもつ個別性への配慮の怠りにつながり、しばしば患者への不利益という結果をもたらす。しかも何事においても急進派、改革派の欠点として、自らが招いている弊害に対して、しばしば無自覚になりがちなことを胆に銘じるべきだろう。
他方、治療者はある一定以上の経験を積むと、根拠に乏しい自信と怠惰から、新しい情報に対して保守的になったり排他的になって、自ら慣れ親しんだ流儀に固執しがちである。治療者としての中庸性の大切さを再認識しておきたいと思う。
4.EMDRの特殊な変法
最後に、筆者がEMDRの技法の一部を独自に修正して、悪夢の改善に治療効果をあげている簡素な特殊技法を、本誌の読者ために特別に開陳して稿を終えたいと思う。
(1)眼球が左右にできるだけ素早くリズミカルに振れるように、診察室内の適当な壁の上方の2点を交互に約16回見てもらう。
(2)その直後に、好きなイメージや楽しい情景(何でも良い)を(一瞬でも良いから)頭の中に想い浮かべて、楽な姿勢で眼を閉じたまま2回ゆっくりと深呼吸させる。
これに先立ち、治療者が指で追視させるなどの援助をして眼の動きを慣らすのもよい。
上記(1)(2)のセットを就寝前に天井の適当な2点を見ながら2〜3セット実践してもらう。以上の簡単な手順であるが、筆者の30例近い経験では、少なくとも7〜8割以上の率で、悪夢が完全消失、ないし、見ても平気になるという効果を得ていて重宝している。
もちろん、悪夢の具体的な内容にも、外傷体験らしきものにも直接タッチせず、ただ1回の外来診療の中のほんの2〜3分ですむ。患者から、なぜ効くのかと尋ねられれば、「夢を見ているときには眼球が素早く動いているのだが、ホラー映画が睡眠中に上映されてしまう前に、予め、眼球を動かす、つまり映写機を回して、スクリーンの上に別の画像(いいイメージ)を上塗りしてしまうのだ」、などと適当な理屈をつけて説明し、納得してもらっている。これがブリーフサイコセラピーと呼べる代物かどうかは別にして、その効果を、もし実感していただければ幸いである。
参考文献
- Berg,I.K:Family Based Services.A Solution-Focused Approach. W.W.Norton,1994.(磯貝希久子監訳:
家族支援ハンドブック , ソリューション・フォーカスト・アプローチ,金剛出版,1997.)
- 市井雅哉、熊野宏昭編:こころの臨床 .la ・ carte,第18巻、第1号,特集「EMDR…これは奇跡だろうか」 星和書店,1999.
- 高崎吉徳(1998): EMDRとTFT − PTSDの新しい治療.精神科治療学,特集PTSD,第13巻,第7号; 833-838,
星和書店.
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