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心と社会 No.100 31巻2号
巻頭言
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『心と社会』
100号記念にあたって
−新ミレニアムの夢−
加藤伸勝
日本精神衛生会理事長
日本精神衛生会理事長 今年は西暦2000年という人類の歴史にとって大きな節目の年であり、わが日本精神衛生会にとっては、財団法人の認可を受けて50年にあたり、広報誌『心と社会』の100号刊行の記念すべき年でもある。
『心と社会』は、それまで日本精神衛生会の広報誌として続いていた『精神衛生』を改題し、内容を「精神衛生の新しい展開に対応するために想を新たにした」(秋元波留夫理事長の創刊の辞)ものであった。
顧みると創刊の年の昭和44年(1969年)は精神医学界にとって激動の年で、金沢の第66回日本精神神経学会では認定医制度をめぐって激論が交わされ、また、学会の研究至上主義が若手精神科医によって批判され、理事全員が辞任したりした。そうした学会の混乱に加え、精神病院を巡る不祥事件が相次いで起こり、精神障害者の医療の危機が叫ばれたりもした。期を同じくして東大安田講堂占拠事件に端を発した大学紛争が燎原の火のごとく全国に広がった。社会的には覚せい剤乱用に加え、シンナー流行が青少年の健康を蝕むことが憂慮されるなど社会不安が人々の心の平和を乱していた。
『心と社会』の創刊はそのような時代背景の下で、精神衛生の新しい在り方と方向を目指すものとして、新編集方針により発刊されたものであった。そして、読者対象をそれまでの医療関係者向けから、より広く一般市民にも向けて、精神衛生思想の普及を図ることにも力が注がれた。
歴代の編集委員の努力によって、その内容は論説、随想、時評、特集等多岐にわたり、精神衛生の総合誌的役割を果たし、現在、年4回、各4,000部発行している。
今般、その100号を記念して、創刊以来のあゆみや目次の全容の掲載に加え、過去・現在・未来を語る座談会を特集してあるので、お目通しいただきたい。
さて、次なる200号への出立にあたって、99号までの記述の中から、新ミレニアムにあたって、夢を語るにふさわしい三つを筆者の独断で選び、その夢の実現の可能性について触れてみたい。
分裂病の予防について、筆者も過去に触れたことがあるが、『心と社会』(No.90,1997)の岡崎祐之氏の「精神分裂病予防のゆめ」は決して夢物語ではない。
「一次予防を考えているというと、冗談でしょうといわれる」という書き出しで始まるが、氏は分裂病の親から生まれた子(高危険児・者)の研究から、罹病に関する脆弱性(ズベン,J.によるストレス−脆弱性モデル)を持つものを対象に、その発症率、遺伝関係を調べるとともに、その発症に抗する可能性のある社会的要因を求め、さらに発症予防の働きかけについて考察するというきわめて正統的な研究手法に基づき、夢を語っている。
分裂病の成因に遺伝素因を重視する研究が多い中で、発症の時期が主に思春期以降であることから、その時期の心理社会的ストレスが発症に関係することの指摘とその対策を語る岡崎氏は真剣に分裂病の予防に取り組んでおり、その成果が期待される。
この件に関しては、『心と社会』(No.71,1993)に、山口晴保氏の「アルツハイマー型痴呆が不治の病でなくなる日を目指して」の一文があり、本病の予防・治療の夢が膨らむ。
わが国の人口の高齢化はきわめて急速で、平均寿命は男77歳、女84歳と世界一となっている。高齢化に伴って起こる老年期の痴呆性疾患のうち、アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆)への対応は血管性痴呆とともに緊急の課題である。近年は前者の発症率がたかまり、問題が深刻化している。山口氏は「1984年アルツハイマー型痴呆脳に老人斑として沈着するアミロイドの主成分がβ蛋白であることが明らかになった」として「このβアミロイド沈着を阻止することができれば、アルツハイマー型痴呆の進行を止め、初期であれば回復も期待できる」と記している。
最近の話題で、アミロイド前駆体蛋白からアミロイドβ蛋白が切り出されるが、これにかかわる酵素のβ−セクレターゼやγ−セクレターゼが同定され、この酵素の阻害剤が開発され、治療に供せられる日が近いという。また、アルツハイマー病ではアセチルコリンの分解に預かるアセチルコリンエステラーゼの阻害剤(ドネペジル)が現に臨床に供せられており、初期の発症例に有望視されてきている。更にアルツハイマー病の危険因子アポリポ蛋白E4の解明も進んでいる。本病の場合も分裂病と同様に発症に預かる心理社会的要因も無視できない。老人の生活改善の努力が重要課題となろう。山口氏も「アルツハイマー病の予防と発症機構に根ざした治療の開発は決して夢ではない段階にさしかかっている」と述べているが、これも遠い夢ではない。
『心と社会』(No.46,1986)の秋元波留夫会長による「変貌するアメリカの精神病院―脱施設運動30年の歴史が物語るもの」は、わが国の精神病院の今後の脱施設運動について示唆するところが多く、新しい精神病院の誕生の夢を導く。
わが国の精神病院の病床数は、1960年には人口万対17.6床から、いわゆる精神病院ブームの波に乗り、1975年には万対24.9床となり、その間、精神病院不祥事件が相次ぎ、隔離収容の体質が問われてきていた。1997年の時点でさえ、病床数は人口万対28.8床と一向に減る兆しがない。
秋元論文にある通り、アメリカでは1960年頃からのケネディ大統領による脱施設政策によって、州立病院は整理縮小され、入院患者は激減した。ラム,H・Rによれば、1955年に55万9千床(人口万対33.9床)であった精神病床数が、1994年には7万2千床(万対2.9床)になっているという。脱施設運動の目的は精神障害者の権利保障(人権の尊重と地域での自立を援助することにあった。しかし、その急激な改革は、地域での受入体制の不備から、「ホームレス・ピープルという新しい『国民的恥辱』を必然的に生みだした(秋元論文による)」。しかし、この運動は、世界的に精神病院の在り方に関し、強烈なインパクトを与え、英国をはじめとする精神障害者のコミュニティ・ケアの体制づくりに火をつけた。わが国もようやく入院中心主義の精神医療体制の改革に踏み出しているが、現に入院患者の3分の1が、いわゆる社会的入院者で占められていることは遺憾なことである。
精神病院改革への道筋は、長期入院患者の退院促進のための施設や制度の確立にあるが、現行の精神保健福祉法の社会復帰施設の数では、精神病院の脱施設化への道は遠い。国が公的、私的の社会復帰施設関連の予算措置を可及的に増やすことによって、長期入院患者を減らすことができれば、精神病院は新しい治療中心施設として生まれ変わるであろう。
その夢の実現に期待したい。
かつてリース,T・Pが王立医学心理学会の年次総会(1956年)で行った講演の言葉は今でもいきている。「精神医学において私たちが今通過している時代を後の人は精神病院時代とみなすでしょう。そして、2056年の年次総会では、それが休日キャンプに転用されてしまう前に、最後の監禁式長期精神病院を見学するための旅行がされることであろう」と。
2056年とはいわず、次世紀初頭には、わが国の精神病院の脱施設運動の夢がかなえられることを願いたい。
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