|
心と社会 No.108 33巻2号
随想
|
うつ病が社会に問いかけるもの
かねがね私は、「うつ病」という言葉が必ずしもデプレッション(depression)という英語のニュアンスを充分には生かし切れていないように感じている。経済用語でデプレッションというと「不況」という意味になる。経済の活気がない状態だ。同じように、精神疾患としてのデプレッションも、精神的に活気がない状態をさしている。
アメリカ精神医学会の診断分類である『精神疾患の診断・分類マニュアル』ではうつ病の中核症状群である「大うつ病エピソード」の診断基準として、次の二つのどちらかの症状が存在していることが必要としている。
(1)抑うつ気分:患者自身の言明(例えば、悲しみまたは、空虚感を感じる)か、他者の観察(例えば、涙を流しているように見える)によって示される、ほとんど1日中、ほとんど毎日の抑うつ気分
(2)興味または喜びの喪失:ほとんど1日中、ほとんど毎日の、全て、またはほとんど全ての活動における興味、喜びの著しい減退(患者の言明、または他者の観察によって示される)
ところが、「うつ」という言葉から連想されるのは「(1)抑うつ気分」だけで、「(2)興味または喜びの喪失」はあまり頭に浮かばない。そのために、患者は「なぜか元気が出ず、何にも興味が持てない」状態になっても精神医学的治療が役に立つとは考えないで、自分の気持ちの持ち方が悪いからだと自分を責めて、ますますつらくなるという悪循環に陥ることになる。
うつ病になった人がそれと気づかずに一人悩んでいることはいろいろな研究から明らかにされている。8万人近い地域一般住民を対象にしたヨーロッパの疫学調査からは、住民の約5パーセントがうつ病にかかっているが、そのうち医療機関を受診していた人は6割に満たなかったという結果が報告されている。
わが国の現状はもっと深刻だと、筆者は考えている。
私たちの研究グループは、厚生科学研究の一環として、青森県の名川町と共同で、高齢者のうつ病と自殺を予防するための地域介入を行っている。この地域は自殺が多いために、自治体が積極的に対策に乗り出したのである。私たちが行った調査からは、死について繰り返し考えている人や自殺について考えている人は、65歳以上の高齢者の10数パーセントを占めていた。
しかし、死について考えるほどうつ的になっても、ほかの人に相談する高齢者はかぎられていた。死について考えるほどになっていても、3分の1の人しかほかの人に相談していなかったのである。しかも、これは家族を含めての割合であり、この傾向は自殺念慮が長期間持続していても変わらなかった。それだけ心の内面を打ち明けられないまま孤立している高齢者が多いということがわかったのだ。
多くの人は、こうした悩みが自分の気持ちの問題だと考えていたのかもしれない。実際に、うつ状態にある人や死について考えている人の精神症状を調べてみると、「(1)抑うつ気分」よりはむしろ、「(2)興味または喜びの喪失」を体験している人が多かった。私たちの調査では、最初に現れるうつ病の症状としては次の5つが重要であることがわかった。
(1)毎日の生活にはりが感じられない
(2)これまで楽しんでやれていたことをしても楽しめない
(3)わけもなく疲れたような感じがする
(4)これまで楽にできていたことが、おっくうに感じられる
(5)自分が役に立つ人間だと考えることができない
高齢者であるためにこうした特徴が強くでた可能性はあるが、このような状態からうつ病を連想することはなかなか難しいだろう。また、うつ病になると不眠や食欲不振、頭痛などの痛みや胃腸症状など様々な体調不良が現れるために、うつ病という精神的な疾患だということに気づきにくくなる。そこで私たちは、図1に示したようなパンフレットを作成して地域住民に対する啓発活動を積極的に行うことにし
た2,3)。
地域の自殺予防活動では新潟県松之山町がよく知られている。松之山町では10年以上にわたる活動で、自殺者が大幅に減少した。松之山町の活動を、同じような活動をして成果が上がらなかった地域のそれと比べてみると、地元の一般医と精神科医と密な連携が図られ、精神科的治療が積極的に取り入れられていることが特徴的だった。また、保健婦による訪問指導が頻回で、デイサービスやショートステイ利用など福祉サービスの利用率が高かった。こうした結果は、様々な職種のネットワークを通した人間的関わりがうつ病や自殺の予防に重要な役割を果たしていることを示している。
私たちと共同で活動している青森県名川町の保健婦や地域の人たちに、その町に自殺が多い理由について尋ねてみた。きちんとした調査がまだ行われていないこともあって、その理由について明確な答えは出なかったものの、地域の住民の価値観が影響している可能性が話題になった。
この地域の人たちは、とくに高齢者は、働くことをとても大切に考えているし、それまで働いてもきた。ところが年をとると、若いときのようには働けない。そのような自分が許せず、抑うつ的になって死を考えるようになるないのでないかというのである。高齢者が「非生産者は不要」という考えを表出したり、次世代との価値観の違いを嘆く場面を観察したという報告もある。こうした傾向は地域との交流の比較的乏しい高齢者に目立っていた。
こうしたことから、町では、高齢者がゆとりを持って生活できるような環境作りを軸に予防対策を組み立てることになった。これは、地域の人間的関わりを通して高齢者が自分の存在価値を再確認することを助ける活動でもある。
これまで、几帳面でまじめな人はうつ病になりやすいとされてきた。責任感が強くて、誠実で、良心的な人は、何ごとにつけ完璧主義になりやすく、少しでもうまくいかないことがあると自分を責めるタイプの人だ。
たしかにそうした傾向は否定できないが、ことはそう簡単ではない。私は、やはり心にも「当たりどころ」があって、体の場合と同じように精神的にも「当たりどころ」が悪いとひどいショックを受けてうつ病になる可能性が高くなる、と考えている。うつ病は、個人のパーソナリティ要因に加えて、その人を取り巻く人間環境や社会環境との相性が悪いときに発症しやすくなると考えているのである。
仕事に一生懸命で成果を上げようとする「仕事中心型」の人は、少しくらい人間関係の摩擦があっても耐えられるが、仕事の失敗が取り返しのつかないことのように思えて、悲観的な世界の中に入ってしまう。仕事はそこそこにして、人間関係を大事にしようとする「人間中心型」の人は、人間関係がうまくいかなくなると落ち込んでくる。いつもこのようにきれいに二つのタイプに人間が分けられるわけではないが、人それぞれにストレスを感じやすい環境があるのである。だから、心の健康を保つためには、自分のパーソナリティの特徴をわかって、ストレスを感じやすい環境を知っておくことが重要になる。
最近私たちは、性格にあわない環境がうつ病の誘因になる可能性があるという双生児研究の成果を報告した1)。これまでは、他の一般身体疾患と同じように、精神疾患に対しても原因遺伝子の探索が盛んに行われてきた。しかし、軽症から中等度までの抑うつ症状をもつ双生児の調査からは、うつ病に関してはむしろパーソナリティが遺伝しており、そこに何らかの環境的要因が影響してうつ症状を呈することになったと考えるのが自然であることがわかった。そうしたパーソナリティと環境のミスマッチを私は、「心の当たりどころ」の悪さと表現しているのである。
うつ病・うつ状態の早期発見のために
うつ病はとても多い病気ですが、気づかれないまま悩んでいる方が少なくありません。しかし、うつ病は治る病気です。
次の(1)から(5)の5つの症状のうち2項目以上当てはまった人は、早めに医師や保健婦にご相談ください。
|
(1)毎日の生活にはりが感じられない
|
|
(2)これまで楽しんでやれていたことをしても楽しくない
|
(3)わけもなく疲れたような感じがする
|
(4)これまで楽にできていたことが、おっくうに感じられる
|
|
(5)自分が役に立つ人間だと考えることができない
|
(補)次のような症状も、うつ病でよく見られるものです |
睡眠障害
(眠れなくなる、または寝過ぎる)
|
食欲障害
(食欲がわかない、または食べ過ぎる)
|
死についてよく考える
|
平成12年度厚生科学研究費補助金障害保健福祉総合研究事業「うつ状態のスクリーニングとその転帰としての自殺の予防システム構築に関する研究」 |
※大野裕『「うつ」を治す』(PHP新書)より引用
イラスト:藤臣柊子 |
|
図1 うつ病早期発見のためのパンフレット2) |
働くことを最優先してきたのは地方の高齢者ばかりではない。都市部でもそれは同じだ。しかし、バブル経済が破綻して、皆が同じように評価されるということはなくなった。欧米のアングロサクソンの価値観に準拠したグローバリゼーションがおし進められ、これまで当たりまえのように考えられていた横並びの終身雇用制が見直されるようになった。
成果主義ということで、売り上げに応じて会社のなかの地位と給料が決められる会社も出てきている。「がんばった人がそれだけ認められる社会」というのは聞こえがいいが、いくらがんばっても成果のでない人はいるし、心身の理由でがんばれない人もいる。そうした人間の多様性が否定され、人間関係の希薄化が進んで、そしていまうつ病や自殺の増加が問題になっているように私には思える。
うつ病などの気分の障害があると医療機関で診断された人の数は昭和59年の10万人弱から平成8年の43人へと急増しているし、自殺者もここ3年間、3万人を超えている。
これは、私たち日本人が作り上げてきた相互依存的な社会が破綻したことに一因があると私は考えている。横並びと批判されがちな相互扶助的システムにしても、日本的な根回しにしても、不安を感じやすい私たちがお互いの立場を尊重しながら生きていくための手だてであり、意味があったのである。
そのシステムが立ち行かなくなったところにうつ病や自殺の増加の大きな要因があると私は考えているが、そうすると、個人の多様性をお互いに尊重しあいながら支えあえるような新たな社会的ネットワークをもう一度作り出していくことが重要になる。人間的なつながりを大切にしながら個別性を発揮しつつ現実に直面していけるような環境を、地域で職域で、そして家庭で作り出していくことが必要であり、それがうつ病の一次予防とこころの健康につながると考えるのである。
1)Ono Y, Ando J, Onoda N, Yoshimura K, Momose T, Hirano M, Kanba S:Dimensions
of temperament as vulnerability factors in depression. Molecular Psychiatry(出版予定).
2)大野 裕(主任研究者):厚生科学研究費補助金障害保健福祉総合研究事業「うつ状態のスクリーニングとその転機としての自殺の予防システム構築に関する研究」報告書,2001.
3)大野 裕:「うつ」を治す.PHP新書,PHP,1999.
|