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心と社会 No.111 34巻1号
巻頭言

 脳の科学とこころの科学

鹿島 晴雄
(慶應義塾大学医学部精神神経科学教室 教授)

 

 神経科学から脳の科学へと最近の脳に関する科学の発展はめざましい。さらに21世紀はこころの科学の時代といわれ、クオリアや自己意識などといった主観ないしそれに類似する問題までもが研究の対象になりつつある。臨床家としての私は、一応、脳がなければこころもない、こころの働きと脳の働きは重ね合わせである、という立場でやっているが、原理的なことはともかく、主観を対象としようとする最近の脳研究の方向には大きな関心と共感を持っている。私の専門は心理機能を脳との関連で検討する神経心理学であるが、この領域は訴え(体験)の記載から出発してそれを脳の機能と関連させる方向、つまり主観から客観へと向かうことで、科学として発展してきた。こころから出発し脳の科学へと発展してきたといえるが、しかしそれは同時に、こころ(体験、主観)を等閑視することでもあったと思われる。

 たとえば神経心理学において連合型視覚失認という症状がある。形態の視覚的認知は良好なのに、見える物が何であるかわからないという症状である。細部まで正確に模写ができ、その物の名前も知っており、それに関する知識もあるのに、見てそれが何であるかわからない。神経心理学では、知覚そのものは正常、すなわち脳の中に視覚像は正しく結ばれているが、意味との連合が断たれている状態と説明される。“意味を奪われた知覚”ということである。視覚失認については、それを生じさせる脳の損傷部位や症状形成の脳機構について多くの知見が得られてきた。訴えという視覚体験の記載からその脳機構の解明へと科学的に発展してきたわけである。しかしそれとともに視覚失認の人には“どのようにものが見えているのか”といった体験自体への関心は薄れていった。

 失認は意味を奪われた知覚とされるが、連合型視覚失認の人は、決して「意味のないものが見える」とは言わず、「ぼんやり見える」「はっきり見えない」などと口を揃えて視覚体験の曖昧さを訴える。視覚像と意味との連合が断たれたという客観的な事実からは予測し難い体験を訴えるのである。ここでもし主観的訴えのみから考えれば、視覚失認は視知覚の量的異常(視力の異常)、あるいは質的異常(乱視など)とも考えられるであろう。しかるに、神経心理学的な検査を施行すると、知覚は正常としか言いようのない結果が出るのである。連合型視覚失認ではかなり精密な模写が可能なのであるから、客観的には、すべて細部までよく物が見えていると言わざるをえない。連合型視覚失認においては、訴えから客観的症状に到達しえず、またまた逆に客観的症状から体験をたどることもできないのである。すなわち主観的症状と客観的症状を隔てる厚い壁があるといえる。“意味を奪われた知覚”は、あくまでも客観的に観察した場合の失認の定義である。客観的に症状が把握できると、主観的訴えは軽視されるのが医学の常であるが、視覚失認の場合も「ぼんやり見える」という訴えは等閑視されてきたといえる。しかしながら、連合型視覚失認で確認される主観的症状と客観的症状を隔てるこの厚い壁は、実際にはあらゆる病態で存在すると考えられる。

 主観的症状と客観的症状の橋渡しをするのは言葉であり、したがって両者の間の厚い壁について考える時、体験を言葉で表現することの限界という問題が浮上する。主観的体験、たとえば知覚を言葉に翻訳するためには、当然ながらその知覚に当たる言葉を知っている必要がある。逆に言えば、その知覚に当たる言葉を知らなければ、またはその知覚に当たる言葉が存在しなければ、表現はできないことになる。すなわち、未知の全く新たな体験や知覚は、言語による表現は原理的に不可能であり、他者に伝えることはできない。無理に表現しようとすれば、既存の言葉にあてはめる以外に方法はない。これはいわば言葉による体験の規格化である。視覚失認の主観的体験も、当然ながら新たな未知の体験である。ここには既存の言葉による表現を適用せざるをえないことになる。したがって「ぼんやり見える」などと規格化するしかないことになるのであろう。視覚失認は、主観・客観症状の対比が可能な極めて例外的な病態である。大部分の精神症状はこうした対比は不可能で、主観的訴え以外には症状にアプローチする方法がない。このことの危険性と限界には常に留意する必要があろう。言葉による規格化は、実は知覚に限らず、あらゆる体験、さらには感情にまで言えることであろう。すなわち、精神症状の理解全般に内在する問題である。これは換言すれば、主観・客観の二分法に内在する問題であり、連合型視覚失認の検討はこの問題にあらためて気づかせる機会となっている。

 神経心理学は、体験の記載からその脳機構の解明へと科学的に発展してきた。しかしそれとともに視覚失認の人には“どのようにものが見えているのか”といった体験自体への関心は薄れていったように思える。神経心理学は訴えから出発したが、再び訴えに注目し、それを脳機構との関係で再検討すること、つまり脳の科学という基盤のあるところでこころの科学を構築すべきであろう。一方、多くの機能性精神障害においては、訴えが検討の主たる対象であり、その脳機構に関する知見は未だ乏しく、脳の科学というにはなお遠い。そこでは、視覚失認のように脳の機構から訴えを捉え直すという方向とは逆に、訴えからその脳機構を探らねばならない。神経心理学のように訴えの分析から出発しその脳機構の解明へ、つまりこころから脳の科学へと向かわねばならない。しかしこれまでの神経心理学とは違い、今では認知科学や脳の科学の発展がもたらした多くの知識と方法がある。脳の科学の進展とともにこころ(体験や主観)の科学への期待が高まるのも当然といえよう。


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