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心と社会 No.124 37巻2号
巻頭言
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「これからの精神医療を考える」
小山 司
(北海道大学大学院医学研究科 神経機能学講座精神医学分野)
2005年7月15日に「心神喪失者等医療観察法」が施行され、わが国もようやく触法精神障害のための専門医療としての司法精神医療をスタートさせ、約1年を迎えようとしている。大阪・池田小学校の凄惨な事件の衝撃のなか、見切り発車した感のある処遇法案化の審議はたいへん難航したことは周知のとおりである。難産で生まれた新たな法律だけに、刑法や精神保健福祉法、刑事訴訟法との整合性における法学上あるいは実践上の問題点をはじめ、新法の根幹ともいえる「指定入院医療機関」の設置の遅れなど多少の混乱が生じている。しかし、重要なことは、触法精神障害者に対し、国の責任において、良質で高度な治療サービスを提供できる体制が整ったことにある。日本における新たな実践を踏まえたうえで、創意工夫と率直な意見交換を重ねるなかで、様々な問題点を修正し、克服していくことが期待される。
こうした動向のなか、2006年4月から、精神障害者を含めた「障害者自立支援法」が施行された。それに先立って、厚生労働省は、2003年から「精神保健福祉改革」の具体的取り組みに向けるとし、精神保健の普及啓発、精神医療改革、地域生活の支援、早期退院などのグランドデザインを提示した。ちなみに、精神医療改革として「入院期間の短縮、7万2千人の滞留患者の退院」を大きく打ち出していることはすでに周知のとおりである。厚生労働省のこの提言と「心身喪失者等医療観察法」との関連性について何も明言されていないが、日本における今後の精神医療改革の両輪として機能させようとする政策的意図がみえてくる。
すでに述べた触法精神障害者の処遇に関する法制度は、司法精神医学の重要な課題であるが、さらに重要な課題は、精神障害者の触法行為、犯罪の防止である。ここで、精神医療、精神保健の充実こそが、精神障害者の触法行為を防止する不可欠の要件であるというあまりに自明な真理が喚起される。これに反して、わが国の精神医療、精神保健には改革を要する多くの問題が山積している。それらの多くは、これまで数十年にわたって、識者が指摘し、関係者が多大な努力をしてきたにもかかわらず、現在にまで持ち越されてきた問題である。その病根は根深い。現在、日本の精神障害者がおかれている状況は、歴史的にかたちづくられたものである。すなわち、日本における精神障害者の処遇の歴史と、それを背後から支えてきたパラダイムが問題の核心である。「今こそ精神医療のパラダイム変換が求められている」という主張が成立するのは、こうした日本の精神障害者の処遇の歴史を直視したうえでのことである。
「心神喪失者等医療観察法」と「傷害者自立支援法」が相次いで施行され、ここにパラダイム変換ともいえる新たな司法精神医療、精神医療、精神保健福祉が実践化する機運が生じた。この機に乗じて、今後の精神医療の充実を期して、日本の精神医療がかかえている基本的問題について触れることにする。
ひとつは精神科病床数の問題である。日本は、絶対数においても、また人口比でも、世界最多の入院患者をもつ国である。経済協力開発機構(OECD)によると、人口1万人に対する精神科の病床数は、英国10、カナダ4に対して、日本は28(全体では約34万床、日本の全病床数の4分の1)と突出して多い。平均在院日数も英国86日、カナダ22日と比べて、331日と長期にわたっている。1960年代以降、各国が「病院中心の医療から地域福祉へ」のノーマライゼーションの思想のもと、病床数を減らしてきたのに対して、日本の病床数は一貫して増加してきた。こうした中で、「社会的入院患者」の存在が問題化した。2002年に厚生労働省が行った患者調査から、精神病院の入院患者のうち、21.7%、72,000人は条件が整えば退院できる可能性があり、国は2011年度までに5万人の地域移行を進めることとし、医療計画に基づく病床数の減を打ち出している。
いまひとつは精神医療における医療法特例という優遇措置の問題である。1948年施行の医療法の精神科特例によって、精神病院では一般病院の3分の1の医師と、3分の2の看護者でよいとされたのである。また診療報酬の仕組みも精神医療のみが不当に低く抑えられてきた。このような医療差別が現在までまかり通っている事実は国民にはよく知られていない。この問題は日本の精神医療の不備を規定してきた大きな要因のひとつといえるだろう。
最後の問題は精神障害者に対する精神保健福祉施策の立ち遅れである。この問題について、厚生労働省から提言された「障害保健福祉施策(改革のグランドデザイン案)」には、精神障害者の社会復帰、自立、社会経済活動への参加の促進が謳われ、それらを支える総合的な自立支援システムの内容が具体的に提示されている。さらに、保健所を中心とする精神保健多職種チームの連携と、ケアマネジメントの援用による包括的地域精神科治療の構築が具体的に示されている。これら精神障害者の地域生活を援助する施設と活動こそが、これからの日本の精神医療、精神保健の水準の向上を確約する基本的課題であることを強調したい。
精神医学は関係性を追求する学問であるともいえる。その実践活動としての精神医療や精神保健の現場には、個人や社会、あるいは両者の関係が生々しいリアリティをもって立ち上がってくる。ともすると、人権か社会の安全かといった二項対立軸で、多分に政治色・イデオロギー色の色濃い文脈で論じられる傾向があった。たいせつなことは、いわばこうした抽象論ではなく、現実の精神医療のなかで弱い立場に置かれている個々の事例に即して、全体をバランスよく視野において最善を考える知恵ではないだろうか。そして、こうした現場での実践を支えるシステムを構築していくことこそが、ひいては日本の精神医療の充実・発展につながる王道といえるのではないだろうか。
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