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心と社会 No.129 38巻3号
巻頭言
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つきあい方のかたち
先日、アメリカの医療事情を視察に行ってきた同僚が地下鉄の中でつぶやいた。「いやー、いませんよ。電車の中で並んで携帯メールに夢中になっている人は。」近頃はともすると、座席に腰かけている人たちが一列こぞって細長いスティックを自分の顔の前にさし出してじっとみつめる光景は珍しくなくなった。彼らは自分の前に立っている乗客や隣に腰かけている乗客などは殆んど目に入らず、ケータイの先の相手や情報に関心を向け続け、周囲に無関心な状況を人為的に作り出す。
電車の中で化粧をする若い女性もそうである。彼女たちの行動を観察しているとそう思う。座席に腰かけて、すぐに膝にのせたバッグを開いて二つ折りの文庫本くらいの大きさの手鏡を開き自分の顔をじっとみる。私の観察するところ、多くの場合はアイシャドーをつけたり、まつげをカールしたり、髪をとかしたりといった化粧の最終段階をしているとみるのだが、友人が言うには化粧水や乳液、クリームといったメイクアップの基礎からやり始める人もいるのよと強調する。
とうに「若者」を脱した者からみると、化粧をするという行為は、社会人として人前に登場する前の準備として、舞台裏でやるべきものであるという通念があるため、公衆の面前で化粧をする女性は見苦しい。その見苦しさをがまんして、正面の化粧客をみていると私はキレそうになる。衝動をコントロールするのが大人であるから、これまでキレたことはないが、いつかキレてみたいとひそかに思っている。今のところ、眼光鋭くして批判の目をむけることくらいしかできない。しかし、批判の視線は彼女たちに届くことは殆んどない。なぜなら、彼女たちは周囲の者に関心をむけることはなく、まるで電車の乗客は自分だけであるかのように、化粧道具をバッグにしまい、堂々と降り立つ。
私には、もうひとつキレそうになることがある。それは駅の階段をけたたましい足音を響かせながら歩く若い女性たちである。永田町のような長いエスカレーターでも、上から下までとどろき渡るようなカンカンカンという金属製の音は私をいらだたせる。おそらく彼女たちは自分が発している音がきこえないのであろう。いや、きこえていても周囲の乗客が迷惑に思っているどころか、そもそも周囲にも人がいるという感覚自体が希薄なのかもしれない。
勇気ある男性の友人が言うには、大股で腰かけている男性の乗客には、持っている傘などで、股をとじるように“指示”すると、10人中9人までは率直にきくが1人くらいがすごむという。彼らは意外におとなしいと、警察庁のOBはいう。しかし、そばにいる妻は仕返しがあるといけないからそんなことはやめなさいと言うのだがと苦笑する。
ここまでは一般社会の話である。人と人との生身のつき合いが減少しているのは病院という職場でも生じている。
電子カルテがその要因でもある。ナースステーション(現在は、スタッフステーションと呼ばれるようになりつつある)の朝は、その昔はにぎやかであった。夜勤のナースに日勤のナースが加わり、当直明けの医師や担当医、研修医などがあれやこれやと会話を交わしたものである。私が病棟のヘッドナースをしていた時、雨上がりの空にかかった虹をみて、ある医師があの虹のもとまで行ってみたいなと語ったり、美しいばらの花をカーネーションですかときいて嘲笑されたりしたものだった。
現代のナースステーションは基本的に静粛である。朝、医師がすっとやってきてコンピューターの端末に向かい、担当の患者のデータ等を確認し、指示を出し、ステーションから消える。情報技術の進歩は、病棟にやってこなくとも患者の治療や処置の指示が出せるようになった。ナースたちもそれぞれの端末で情報を確認し、病室に入る。
病棟師長は、今日の会議の予定と自分の不在時間を副師長にメールで伝え代行を頼む。すぐうしろで背中合わせにすわっているにもかかわらず電子メールで報告する。それを毎回やられる副師長は、自分は疎んじられているのではないかと悩む。
文明の進歩は、生身の人間のつき合いをあえて遮断するように導き、人間に新たな苦悩を生じさせる。所詮、人は人によってしか救済されないということをそろそろ思い起こす時である。
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