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心と社会 No.135 40巻1号
巻頭言
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バランス感覚
第23回精神保健会議のテーマ、「精神障害者への差別や偏見を考える」が論議されている席で、「総論賛成、しかし各論は・・・、と言うことになりやすい」という原田会長のお言葉にある情況がふと思い浮かんだ。TVのシンポジュウムで在日外国人への差別を鋭く指摘するシンポジストに対し、「ご自身の住居の隣人として気持ちよく迎えられるか」と司会者が問うた。当の識者は一瞬ぐっと押し黙ってから、声を落として「ええ、それはもちろん・・・」と応えられたのであった。総論賛成、各論反対、理念は賛成、しかし実現となると・・・、ということは多くの局面で生じる。高邁な理念が人類史上おそらくもっとも多く語られたのであろう20世紀に、地球上各地で戦火や紛争が絶えることなく大量殺戮が繰り返し行われた・・・。
理念と現実の乖離を埋めるにはさまざまな方策があろうが、その一つにまず個人が気負わず市井の一市民としての自分を考えることが含まれるのではなかろうか。私は長期入院をされていた寄る辺ない元患者さんや下校後友達のいない発達障害児、養護施設児童をほんのすこしだが我が家へお招きすることをしてきたが、「枠を超える」「大胆」とご指摘戴いたりもする。至極当然の御意見である。ただ、相手の必要性と自分に纏わる諸条件、その時の情況を考えて、私の器の程と責任を負える範囲を考えてのことなので、結果として、それは双方にとって生活の中での一寸したことに過ぎないのである・・・。事故や予後のマイナスが生じないようには相当考えはする。
日本企業の海外進出が盛んであったバブル崩壊少し前のこと。亡き主人がある大企業の役員をしている友人からの頼みというのを言い出しにくそうに切り出した。その国での海外進出を成功させるには余人をもって代え難いという部下に海外赴任の社命を伝えると、「高校二年の一人息子が吃音、緘黙気味でパニック障害でもある。クリニックからは家庭代わりのほっと出来る場が時に提供されれば、一人日本に残ってもと考えられるが、寮生活だけなら無理、と言われている。」と。学寮では孤立気味、ついては学寮の昼食が休みの日曜日の昼、仮にA君と呼ぶ青年を食卓に招き、私ども夫婦が話しの相手をしてくれれば、何とか好転するのではないか、無理を承知のたっての願いであると・・・。降って湧いた難題だと思われた。私達夫婦の他に病弱な義母と小学5年生の息子が休日毎に昼の食卓を共にする・・・。そして、その時間がA君の緊張を解き、状態改善に資するなどとは・・・。大学受験は二の次にして、そういう状態の子どもは両親が海外へ伴うのがよいのでは・・・。戸惑いはしたけれど、食事付き心理療法などというのではなく、知人のご子息を普通の市井のお付き合いとして、食事の実費代を戴くことで毎日曜日、迎えることにした。
始めてA君に会ったとき、「気持ちは言葉ばかりでなく、いろいろなことから伝わる、その時その時の自然な具合で・・・」と語りかけてそっと待っていると、彼はエンジニアになりたい、勉強に集中できるようになりたい、小学校時代、父親の勤務で欧州で暮らしたが言葉や生活感覚で苦労した、今回は日本に止まりたい、この家はなんかほっとする・・・、と言う主旨のことを吃音混じりのとぎれとぎれではあるものの、小声で意思表示した(この気持ちを大事にしようと私は思った)。懸念されたことは一つの出来事が次の展開を生むかたちで何とかなっていった。食卓情況には不思議なアンサンブルが生まれていった。義母は1930年代、海外で子育てをした経験やその地の風物を回想し、息子はひょうきんなクイズを出して笑いを誘った。A君は私以外の相手にも最小限話すようになっていった。
半年も過ぎた頃、A君と私達親子は揃って観劇に行った。紀伊国屋ホールで上演された、佐藤B作氏主演、井上ひさし原作の『国語元年』である。主題を概略しよう。明治初期、全国でバラバラの言葉を使用していては民心の統一も、軍隊での意思疎通もままならない、そこで「共通語」を僅か1ヶ月で作成せよ、と長州出身の文部省官吏、南郷清之輔は「全国統一話し言葉統一係」を仰せつかる。因みにその夫人、ミツの言葉は鹿児島弁、屋敷に雇われる使用人たちはそれぞれ各地の方言を話す設定になっている。これらを合成しようと苦心するが容易ではない。南郷は失敗し行き詰まる。軽妙な喜劇の中に言葉の持つ意味、文化についての本質的な重い問いが展開される。観客は笑っているがA君は身を乗り出してまじろぎもしない。今は亡き主人は眼を潤ませている・・・。息子は小声で「舞台よりも、A君の真剣さがすごい、感動!」と小声で囁く・・・。帰途、立ち寄った中村屋でA君はカレーを4皿、息子は3皿食べ、全員がそれぞれ腑に落ちた爽やかな表情であった。
A君は両親にも語れなかった小学生時代の異文化体験の辛さが分かち合えるような想いになったと語った。亡き主人は帰国子女のはしりとして当時はすぐ日本に適応した良い子と言われた自分が、あたかも母語の如くであった英語ばかりでなく、それに纏わるもろもろを捨てての適応しをしたのであって、幼児の自分は辛かったのだと内面で受けとめ不覚にも涙した、ということであった。やがて、A君は小声だが自然に話せるようになり、友人も出来た、勉強に集中したいということになった。後日、希望の大学進学もされた。帰国して栄進された父上は精神保健に理解ある方になられたと聞いた。
心理的支援にはエビデンス、説明責任を果たす、検証可能性などなど当然必要である。一方、臨床の知は臨床の情に裏打ちされること、バランス感覚が望まれる。
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