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心と社会 No.142 41巻4号
巻頭言

人間の意味するもの

日野原重明
(聖路加国際病院名誉院長・理事長)

「人」という字と同じ意味で「人間」という字が使われている。私は4年前から1週または2週に一回は国内または国外の小学校を訪れ、4〜6年生、すなわち10〜12歳の小学生に「いのちの授業」を行ってきた。

その時に、生徒に人という字と同じ意味の漢字があるかと聞くと、「人間」という字を書く。

そこで「人」と人間とはその意味がどう違うかと聞いても、答えは戻って来ない。そこで私は人間という漢字は人と間の二字からなっているが、人と人が立って手を握ると人と人との関係ができる。人間は一人では生きていかれない。家族や友だち誰かとの関係なしには、水やお茶を飲むことも、また乗り物に乗って旅行することもできない。

従って、言葉や会話で、または動作でコミュニケートできなければ、人はただ孤立した一人であっては生きていくことができない。

すなわち人は必ず他者との関係によって生きるのであり、その関係性の上に人間の社会が形成されるのである。

最近はうつ病とか、それに準じた、人間の孤独により生じる病気をもつ人が増えている。これは「人間」の「間」の関係性の喪失による心の病といってもよいと思う。

この人間の関係性を更に拡大して考えると、人間は、環境によってその存在のあり方が違ってくるとも言えよう。

今日、地球は温暖化の重大な問題に悩んでいるが、これは地球の環境の問題である、それは地球上に住む人間の地理的並びに外気の環境と言えるが、そのような物理的環境とは別に、どのような人的、社会的環境に住むかによって我々人間は、大きく影響されるのである。

進化論を唱えたダーウィンが遺したと言われる言葉に次のような表現の文章がある。

「生き残る種というのは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。最も変化に適応できる種が生き残るのだ」

それと同じようなものに次のルネ・デュボスによって『人間と適応』(みすず書房)の中に述べられた言葉がある。

「健康な状態とか、病気の状態というものは、環境からの挑戦に適応しようと対処する努力に、生物が成功したか失敗したかの表現であると言うことがこの本の主題である。」

とこの本のはしがきに書かれている。

私はうつ病またはうつ状態に近い病む人間にとっての人間的環境のもつ意義は大きいと思う。

病む人がどのような人間を友とするか、愛人をもつか、家族をもつか、誰を師とするか、よき医師をもつか、よき宗教家をもつかという、そのクライエントの人間的環境の欠如によって、その人は病人になるのだと思う。

その人がたとえ遺伝的な素質、すなわち病的遺伝子をもっていても、その人の人間的環境いかんにより、病人にならなくても済むのである。

遺伝子がすべてを決定するのでなく、よい遺伝子を掘り起こしたり、よくない遺伝子を眠らせたりすることに人間的環境は大いに関係するのである。たまたま出会った人との間に作られる人的環境の力にはきわめて大いなるものがあるものと私は考えている。

人と人との出会いは邂逅という漢字にでも表現される。これは英語のEncounterに当たるが、私はこの言葉が非常に好きである。

東京都のJRのラッシュアワー時の新宿駅や東京駅での乗客の出入りには、すさまじいものがあり、互いにぶつかっても振り切って歩み、すれ違う人の顔さえ見ない。邂逅とはこのようなすれ違いとは全く違い、目線が遭い、呼吸が一つになる、別の表現では茶道や香道での出会いに近いものといえよう。そのような人と人との邂逅により、人には、新しい生命が与えられ、庇護された自分でなく、フレッシュな思いで自己実現ができる契機となるのである。これは禅における「不二」の心境と言えるかも知れない。

私はこの人間的な触れ合いから生じる人間的環境こそは、その人間に自立性と勇気ある行動力を生むものと考えている。

うつ状態のクライエントにどうしてこのような関係をもつ環境が可能なのであろうか。このようなことが(財)日本精神衛生会の全員の間で、討議されたらと私は考えている。

この財団は、精神科医や心療内科医や、総合診療医や諸種のコメディカルだけでなく、患者や家族を含めての全員の学習、研究を目指して発足された団体と考えるので、上述したような私の提言をぜひ全員一人一人がよく理解してほしいと思い、本号の巻頭言を書くことを引き受けた次第である。

このうつ病や鬱的状態は小児から老人に至る広範囲の人々に正しく理解されるべきこととして、私は全人的立場に立って、本文を書いた次第である。

私は本年10月4日をもって白寿を迎えたが、長い人生行路の果てにやっと気付いた事柄が余りにも多く、特に私は10年前の老人の定義を変える運動としての「新老人の会」を創設して以来、上記の人間環境の主要さについて感じることが大であることを付言したい。

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