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心と社会 No.167
巻頭言

夏目漱石と家族の心理

亀口憲治
国際医療福祉大学教授・東大名誉教授

漱石と心理学

 朝日新聞紙上に、『吾輩は猫である』などの夏目漱石の主要作品が、100年ぶりに再掲載されている。没後百周年だった昨年末には、テレビでもNHKの土曜ドラマ『夏目漱石の妻』が放映され、生誕150年の今年も、フジテレビが年明け早々に『坊ちゃん』を3時間半の新春ドラマとしてお茶の間に登場させた。漱石ブーム再来を実感させる現象だが、なぜなのだろうか。

 漱石が生まれた慶応3年は江戸時代最後の年であると同時に、翌年は明治元年という近代日本の幕開けという歴史的転換点でもあった。彼は、50歳の父親と41歳の母親という高齢の両親の末子として生まれた。誕生まもなく里子に出され、その後は子どものいない夫婦の養子となった。少年期は、養父母の不倫問題や別居騒動に巻き込まれ、辛い心理状態を経験したことが知られている。8歳ごろに養父母が離婚したために実家に戻されたものの、実父からは疎まれ、14歳で実母を亡くした。その後、短期間に転校を繰り返し、現在の不登校に似た状態に陥ったとの説もある1)。

 文字通り親の愛に恵まれない育ち方をした漱石が、精神発達上の大きな負因を背負っていたことは明らかである。その漱石が29歳で見合い結婚した相手は、10歳年下で御嬢さん育ちの鏡子だった。鏡子は熊本での新婚まもなく流産し、精神状態が不安定となり、白川に身投げした。運よく助けられたものの、その後も不安定な状態が続き、夫婦の関係には危うさが漂っていた。

 漱石は英国留学から帰国後、東大の英文科講師を経て朝日新聞に入社し、新聞小説作家となった。国語の教科書にもよく引用され、優れた英訳を通じて国際的にも評価が高い『心』を発表したのは47歳の時だった。人間の心理や関係を巧みに描く「写生文」の達人にとっても、「心」を主題にした作品の執筆は亡くなる直前だったのである。その数年前に修善寺で吐血し、妻の献身的な看病で臨死状態から奇跡的に回復した後、「現代日本の開化」と題した一般向けの講演を行っている。そこで、「心理学の講演でもないのに」と断りつつ、詰めかけた聴衆につぎのように語りかけた。

 「……物をちょっと見るのにも、見てこれが何であるかということがハッキリ分かるには或る時間を要するので、即ち意識が下の方から一定の時間を経て頂点へ上がって来てハッキリして、ああこれだなと思う時がくる。それをなお見詰めていると今度は視覚が鈍くなって多少ぼんやりし始めるのだから一旦上の方へ向いた意識の方向がまた下を向いて暗くなり懸ける……」2)。

 素人にも分かりやすい「意識」についての説明であり、文章のみならず講演の名手であったとの世評もうなずける。一方、高校生や大学生相手の講演では、カタカナの外来語も多用している。漱石は、聴衆の「心」をつかむ言葉を瞬時に選ぶ能力に長けていた。

漱石と家族の苦悩

 漱石は朝日新聞社の社員ではあったが、仕事場は自宅で、妻と7人の子どもに囲まれた環境で執筆をつづけた。筆一本で生計を立てる作家の緊張感は家中に広がり、家族にとってはさぞ息の詰まるものだったことだろう。子育てに追われ、夫に対等に物を言う妻の鏡子は、世間では悪妻の評判を立てられるほどで、夫婦のいさかいは日常茶飯事だったようである。

 その漱石没後に、女婿で弟子でもあった松岡譲が筆録した鏡子の回想録『漱石の思い出』には、家庭での漱石の言動が生々しく描写されている。驚くべきことには、漱石の遺体を解剖した執刀者の長与又郎博士が行った解剖所見についての講演録が「日本消化器病学会雑誌」の別冊に掲載され、この回想録にも再掲されている。そこには、漱石の脳の解剖所見も含まれている。

 「夏目サンノ脳ハソノ重量ニオイテハサホド著シク平均数ヲ超過シテハオリマセヌガ回転ハドウモ非常ニヨク発達シテイル、コトニ左右の前頭葉ト顱頂部が発達シテイル、ナカンズク右の側が複雑シテイル、スナワチフレクシヒノイワユル連合中枢『アッソチアチオンススフェーレ』ガヨク発達シテイル」3)。

 脳科学が著しい発展を遂げた現代においても、天才の独創性と脳機能の関連を理解する上で、この所見は貴重である。遺体解剖は、漱石の生前の意向を踏まえ、医学研究への貢献も併せて鏡子が希望したものであった。しかし世間の評判は、鏡子の判断を歓迎するものばかりではなかった。この勇気ある決断の背景要因としては、元貴族院書記官長であった鏡子の実父が、そもそも帝大医学部で学んだ元医師であり、上京する前には新潟医学所のドイツ語通訳兼助教だったことも影響しているかもしれない4)。

 鏡子は39歳で未亡人となってから6人の子どもを育てあげ、85歳でその波乱の生涯を閉じた。後年、夫との結婚生活を振り返った鏡子が、長女筆子と松岡譲の4女で孫の随筆家の半藤末利子に、「病気の時は仕方がない。病気が起きない時のあの人ほど良い人はいないのだから」と語ったという。この証言は、心や体を病む人を受け入れる家族の深い愛情の価値を理解するうえで、貴重なエピソードである。

 1世紀を越えて時代を先駆けた漱石夫婦は、みずからの力で家族危機を乗り越えざるを得なかった。幸い現代では、家族を対象とした心理的支援も可能である。専門の家族心理士や家族相談士をはじめ、臨床心理士や公認心理師を含む多職種の連携・協働・共創による病者と家族への心理的ケアが、今後さらに充実することを心から願う。

文 献

1)亀口憲治,2011,夏目漱石から読み解く「家族心理学」読論,福村出版
2)三好行雄,1986,漱石文明論集,29,岩波文庫
3)夏目鏡子・松岡譲,1994,漱石の思い出,414,文春文庫
4)原武哲・石田忠彦・海老井英次,2014,夏目漱石周辺人物事典,笠間書院

 

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