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心と社会 No.171
巻頭言
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呉秀三先生伝記余話
箕作一族につたえられたもの
『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』の文章(とくに“此邦ニ生レタルノ不幸”)の激しさはどこからきているのか。あの激しさは当時でも、不謹慎とみられかねないものだったろう。共著者樫田五郎の文章は全般におだやかなもので、「批判」、「意見」の章の文章は、まさに呉秀三先生(あとは“先生”としるす)(1865-1932)のものである。
では、あの激しさはどこからきているのか(先生は明治的な愛国者で、時勢一般に批判的な人ではなかった)。一つには、普段は寡言だが、いきりたつとはげしい、という気質がある。もう一つは箕作一族にかたりつたえられたものだろう。先生の外祖父箕作阮甫(1799-1863)は洋学者で、東京大学の最前身である蕃書調所の教授筆頭であった。3人の娘は門下の優秀な人と結婚させた。系図をみると、子孫は学者ぞろいで、東京帝国大学教授が何人もいる。ところが、蘭学(のちにはひろく洋学)がさかんになりだしたところで、1839年の蕃社の獄にひきつづき、1849年には蘭学禁止令がでた(禁止令がとかれたのは1855年)。その間蘭学者たちは身をひそめていた(蘭書を音読すると、声をちいさくするように家族がいうなど)。それが幕末になると洋学がまた珍重され、維新になると、かつての頑迷固陋な攘夷論者が新政府を組織したことを洋学者はにがにがしくおもった。
先生の従兄箕作麟祥(1846-1897)は、オランダ語、イギリス語、フランス語にひいでていた。晩年には司法畑で刑法、民法ほかの調査・編纂にあたらせられて、留学の時間もあたえられなかったまましんだので、明治政府につかいころされたようなものだった。洋学者はこのように、時の権力にもてあそばれた。そういうなかで箕作一族は学問にいきつづけた。“権可変、学不易”(この語は岡田)の意識が一族に共有されていった。先生の文の激しさのうちには、こういった意識があったとみなくてはならない。
統計の意
私宅監置論文にはいっている“統計”の意味を、わたしたちは今まであまり強調してこなかった。先生の兄文聰(ブンソウとよまれてもよいと、みずからローマ字ではBunso)(1851-1917)は、統計学を日本の実地に根づかせた人で、晩年は第1回国勢調査(実施は1920年)にむけて努力していた。統計学についての著書・翻訳もおおく、それらには先生の協力もおおきかった。
エステルレン原著、先生訳の「医学統計論」は、はじめ兄が関係するスタチスチック社の『スタチスチック雑誌』に連載され、一本にまとめた『医学統計論』が1884年に刊行された(先生医科大学4年生のとき)。このとき森林太郎(森鴎外)がかいた「医学統計論ノ題言」が、鴎外7大論争の一つといわれる“統計論争”の元となった。森の弟篤次郎と先生とは医科大学の同級生で、森と先生とはしたしい仲にあった。
私宅監置論文における統計の対象は241人である。当時の医学論文で比較的多人数を対象として、それを統計処理したものがどのくらいあったかは、しらべていない。ともかくも、この論文の題に“統計”の2字がはいっていることの意味はおおきい。
大隈重信
大隈(1838-1922)については、2008年の本誌にかいたので、ここでは簡単にのべる。先生が大隈にちかづいたのは、改進党にちかい政治活動をしたことのある兄を通じてだろう。大隈は、精神病者慈善救治会をつよく応援していた(数年間綾子夫人がその会長をつとめた)。“本郷構内に精神病者はいれない”といわれていた大学構内に、精神病科病室がもうけられた(建築費用および初期の運営費用の一部分は精神病者慈善救治会が寄付した)のは1916年で、その落成式では、時の総理大臣の大隈が演説している。大隈はまた、先生が会長の精神病科談話会での演説で、自分の家族(弟)に精神病の人がいて、看護の大変なことはよくしっている、とはなしている。日本の政治家で、家族の精神疾患を公表した人はその後もいるだろうか。
精神病者慈善救治会
これは1902年に先生が設立したもので、はじめは東京府巣鴨病院の後援会という色彩がつよかった(先生は、東京帝国大学教授と巣鴨病院院長とをかねていた、精神病学教室も途中までは巣鴨病院内におかれていた)。のちには、各精神病院の患者慰問、入院費補助(公費負担実現までの)、関東大震災後の無料診療・臨時収容所開設などをした。さらには退院後の療養訓練施設もはじめようとしていた(建て物はできたが、病院として認可されずにおわった)。
この会は、精神衛生啓蒙運動もさかんにおこなっていたが、全体としてみると、精神科関連社会事業団体としての面のほうがおおきかった。
先生の周辺
森林太郎のことはすでにのべた。門下で一番有名なのは、歌人の齋藤茂吉であろう。私宅監置調査は、精神病学教室の教室員(つまり、巣鴨病院医員)によっておこなわれた。齋藤が医員であったのは、ちょうど調査のおこなわれている時期であったが、かれは調査に参加していない。
先生がオーストリア、ドイツへの留学にたったのは1897年である。そのときの送別文集『長風万里集』には、“病中呉学士の洋行をおくる/正岡子規/瓜なすびいのちがあらば三年目”がのっている。
夏目漱石『我が輩は猫である』の甘木先生のモデルになったのは、先生とおなじ広島県人で先生の門下であった尼子四郎である。尼子は夏目家の家庭医であった。鏡子夫人は、夫金之助の病状については、まず尼子に相談したのだろう。このあと先生が夏目を直接に診察したかどうかは何も資料が残っていない(二人に面識があったのはたしかだが)。
障害者運動の旗印となっている「二重の不幸」の語は私宅監置論文に由来するものである。この語をかかげなくてもよい日がくるのはいつの日か。先生が巣鴨の院長になるとすぐに廃棄させた拘束具が、いまさかんに使用されていることを先生はどうみられるだろうか。
わたしたちが再発掘するまで私宅監置論文は完全にわすれさられていた。再発掘後もこれが注目されるまでにはずいぶんながい年がたった。この論文をわれわれがふたたびわすれることは、ゆるされない。
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