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心と社会 No.174 2018MENTAL HEALTH
巻頭言

行動制限ゼロをめざして

齋藤正彦
東京都立松沢病院院長

 2019年、東京都立松沢病院は創立140周年、荏原郡松沢村移転100周年の節目を迎える。細かいことをいえば、松沢病院と呼ばれるようになったのは、1919年の移転以降であるが、ここでは、1879年に東京府癲狂院として成立し今日に至るまでを通して、松沢病院と呼ぶことにする。現在、松沢病院では、元院長でもある松下正明東京大学名誉教授の手によって診療録の整理が進んでおり、松沢病院の長い歴史に、診療録という実資料に基づく光が当てられようとしている。こうした時期に、日本精神衛生会ときょうされんの提携事業として今年製作された映画『夜明け前─呉秀三と無名の精神障害者の100年』は、私たちが、松沢病院が、自分たちの歴史、日本の精神医療の歴史を振り返るために、非常に良いきっかけとなった。

 いうまでもなく、呉秀三は第5代の松沢病院院長であり、1919年の松沢移転に際しては、その計画段階から強い影響力を発揮した人である。呉秀三の事績として最も有名なものは、日本全国の実地調査に基づく、「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(1918)の刊行である。松沢病院の歴史において重要なことは、巣鴨病院医長時代の拘束廃止、隔離処遇の改善と、松沢村に展開した、当時のヨーロッパ流コロニー風の施設である。武蔵野の自然を残す広大な敷地に、2階建ての独立した病棟が点在し、各々の病棟が小さな芝生の庭を持ち、病棟の周辺には農地があり、そのさらに周辺には森があるという風景は、2012年に現在の新病棟が完成するまで続いた。一方で、隔離、拘束の最小化の方はどうなったのだろう。

 1901年10月、留学から戻った呉秀三は、東京帝国大学医科大学教授となり、11月には巣鴨病院の医長(院長)となった。記録によれば、着任するや、「強迫方法ヲ撤去シ、従来使用シタル手革足革縛衣ヲ用フルコトヲ禁ジ、同時ニ隔離室ノ使用ヲ制限」した。それが徹底しないとみるや、翌1902年1月12日には「病院内ノ手革足革ヲ悉クソノ手元ニ集メテ爾後ハ一切コレヲ用ヒザルコト」とし、「二月中尚二回窃ニ使用シタルヲ発見シタレバ、ソレヨリ後ハ全然コレヲ廃スルタメニ二月二十八日全部之ヲ焼却」してしまった、とある。

 呉は次いで、現在の保護室の使い方を改める。「狂騒室ノ構造ヲ改メ、室ヲ広クシ、窓ヲ大キクシ、便壺ヲ塞ギ、患者ヲシテ便所ニ通ワシムルコトト」した。隔離室に患者を放置することなく、排せつの折には保護室から出して便所に連れて行くように指導したのである。

 これによって、1901年には1年間で85人いた拘束患者が、1902年には「ココニ全ク根絶セリ」ということになり、1903年に4.5%だった「狂騒室」使用患者は、1905年には1.5%まで減少したという。抗精神病薬も電気ショックもなかった時代に、これを成し遂げることを可能にしたのは、医師の働き方に「一大改革」をなし、看護者の水準を格段に高めたこと、個々の患者の特性に合った作業を行わせたこと、院内で患者が一般社会に近い生活ができるように環境を整備したことなどによる。

 さて、100年以上が経過した2012年の新棟移転後、私たちは、再び、身体拘束の減少に取り組んだ。2012年、松沢病院全体で20%弱に上った拘束率は、2017年には3%台まで低下した。拘束を減らすプロセスで松沢病院の治療構造に思いがけない変化が起こっている。2012年に66%であった夜間、休日の緊急措置入院患者の拘束率が、2016年に2%にまで減少する過程で、入院時の経静脈的鎮静率が有意に低下し、入院翌日の自発的経口服薬率が有意に上昇したのである。これは、身体拘束によって歪められていた、患者と治療者の関係、損なわれていた互いの信頼関係が修復された結果であろうと私は思う。「身体拘束」という無機的な強制手段を一旦自分の手から遠ざけることによって、夜間、休日の診察室で、治療者は否が応でも患者と正面から向き合うことを余儀なくされる。そうすることで、両者の理解が深まり、患者が治療を受け入れるプロセスが、入院受け入れの段階である程度進んでいるのだろうと想像される(この変化については、今年、日本精神科救急学会で当院の初期研修医である江越正俊医師が報告をする)。

 拘束を減らす取り組みは、松沢病院では長く当たり前だと思われていた行動制限や持ち物制限を減らそうという運動を引き起こしている。精神科病棟の中には、社会では通用しないお作法が、まだまだたくさん残っている。その一つ一つを吟味し、無意味な制限を撤廃していく動きは、緒に就いたばかりである。様子を見ていると、制限の最小化を進められるかどうかは、患者側の要件より、病棟医長、看護師長の力量に負うところが大きい。個人の力量を病院という組織で補うと同時に、様々な方法で私たちの仕事を社会に向かって開き、社会全体が病院を支え、そこで治療を受ける患者を支えるような時代が来ると良いなと思う。

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