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心と社会 No.184 2021
巻頭言

中井久夫氏のノーベル賞への推薦と、『山中康裕の臨床作法』の刊行について

山中康裕
京都ヘルメス研究所長、京都大学名誉教授

 この度本誌「心と社会」編集部から、巻頭言を書いてほしい、とのお達しがあった。

 このところ、ある精神療法専門誌の編集委員会で、いつもお目にかかっている平島奈津子先生を通しての依頼だったので、きっと、彼女ご自身が指名されたのかもしれない、と思ったことである。とても恐縮したが、光栄至極な依頼ではある。なぜなら、本誌には筆者はもう相当以前から接しており、我々の領域では旧知の、何人かの錚々たる知己たちが執筆されていたからである。

 今年は、昨年からCOVID-19、つまりいわゆるコロナ禍で、何もかもが中止か自粛を余儀なくされ、昨年から延期されたOlympic、Paralympicも、私の見るところ開催不能となるのではないか(現時点・3月末)? と危ぶんでいる。そもそも、東京Olympicというのは、1964年こそ高度経済成長の基盤の上にお祭り気分で挙行されたが、いろいろ曰く因縁の多い大会で、1940年のは第2次世界大戦で中止となったわけであるし、今回も現時点で外国からの観客停止との決定であるが、選手の警備だけでも物凄いエネルギーを使って、相当注意深くやりおおせても、果たしてもともとのクーベルタン精神が全うできるとは到底思われないからである。

 もう一つ、別件だが、これも大変に光栄というか面映ゆいというか、昨年暮れに『山中康裕の臨床作法』1)なる書物が上梓されたのだが、驚いたことにこれは、その編集に関わられたお一人の先生によれば、わが敬愛する中井久夫先生の、数年前に公刊された『中井久夫の臨床作法』2)に続くものである、とのことだった。

 中井久夫氏と言えば、私からすれば、彼の真の業績(例えば、世界中でこれまで誰も論じたことのない「分裂病の慢性化問題と慢性分裂病状態からの離脱可能性」3))にしても、また、アメリカ人ネイティヴすらとても読み解けなかったハリー・スタック・サリヴァンの精神医学をいかにも分かり易く読み説き、彼の訳業以後、欧米人たちすらそこからの再重訳でサリヴァンが本当に理解できたというのをよく耳にする事実や、あるいは『分裂病と人類』4)、「西欧精神医学背景史」5)などの優れた論陣。エレンバーガー、バリント、ハーマン、パトナムなどからの優れた訳業で我が国の精神医学史を、大きく書き換え、進展させ、他でもない、統合失調症者や心的外傷後ストレス障害(PTSD)や大自然災害に悩む人々への大きな福音となったことなど、どれ一つをとっても頭の下がる尊い仕事ばかりなのである。いわんや、余技としての、ギリシャのカヴァフィス、リッツォス、エリティスらノーベル賞詩人たちの詩集からの訳業(これらには、すでに、ギリシャ政府から賞が出ている)や、フランスのヴァレリーからの訳業「若きパルク」6)などは、精神医学とは別だが、物凄く緻密で繊細な仕事なのだが、ここは閑話休題。

 さて、1901年に始まって、これまで120年間続いている学問の最高賞たるノーベル賞の、医学・生理学賞の分野で、わが「精神医学・精神保健」の領野で受賞したのは、ユリウス・ワーグナー=ヤウレックの「麻痺性痴呆に対するマラリア接種の治療効果の発見」(いわゆる梅毒による進行麻痺のマラリヤ療法[1927年])と、アントニオ・エガス・モニスの精神疾患患者へのロボトミー[1949年]療法の2つだけで、何と今ではこの二つとも世界の何処ですら施行されていない、いわば過去の方法のみで、精神医学としては実にとても恥ずかしいことなのだが、誰もこのことに言及しない。

 私が、ここに述べている中井久夫氏の幾多の業績を、きちんと欧文でスウェーデンの受賞諮問委員会に報せたら、この領域において間違いなくノーベル賞モノの精神療法家であり、大変に尊敬に値する精神科医であるからだ。でも、不思議なことに誰も声を上げないので、この欄を使ってこれを言い立てたいのである。なぜなら、ノーベル賞は生きていないとだめなので、例えば分野は異なるが、川端康成や大江健三郎などよりも、本当は谷崎潤一郎や三島由紀夫こそが貰うべき日本文学の代表なのだが、何れも賞が決まったり取りざたされた時には、彼らは死んでいてだめだったからである。

 さて、先に触れた今度の私自身にかかわる「臨床作法」の刊行に、私が驚いたというか、吃驚したというか、およそ普通に起こりうる反応としての、嬉しいというような自然な感情よりも、恐縮というか、こんな私などが氏に次ぐ位置に来る筈がない、と確かに思っているので、編者らの無私のご努力には頭が下がり、この欄をお借りして感謝するばかりである。

 ところで、本欄でこれについて若干触れたのは、昨今のDSM-5にせよ、ICD-10にせよ、若い新しい精神科医たちにとっては操作的診断のみありきで、治療の方は生物学的・薬理学的治療と、心理療法でも認知療法のみに傾いて、いわゆるオーソドックスな精神療法が全くお座なりになっている現状を耳にすることが多い昨今なので、ロートルながら、表現療法とはいえ正当な精神療法の一端から差し述べる手もあっていいのではないか、とのご配慮だと捉え、ここに細やかながら、これら若人たちが「私の臨床作法」を参照されたらいいかな? と愚考したからなのであった。

文献
1)統合失調症のひろば編集部編:山中康裕の臨床作法.日本評論社,2020
2)統合失調症のひろば編集部編:中井久夫の臨床作法.日本評論社,2015
3)中井久夫:分裂病の慢性化問題と、慢性分裂病状態からの離脱可能性.笠原 嘉編:分裂病(統合失調症)の精神病理 5,33-66,東京大学出版会,1976
4)中井久夫:分裂病と人類.東京大学出版会,1982
5)中井久夫:西欧精神医学背景史.懸田克躬他編:現代精神医学体系第1巻A 精神医学総論T,中山書店,1999
6)ポール・ヴァレリー著,中井久夫訳:若きパルク/魅惑.みすず書房,1995

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