|
心と社会 No.186 2021
巻頭言
|
ジャッジフリーの生き方
野村総一郎 日本うつ病センター、六番町メンタルクリニック
新型コロナウイルスとの戦いは延々と続き、この巻頭言が発刊される頃には世の中どうなっているのか想像もつかないが、一つの特徴として、このウイルスが人間のメンタルな側面を大きく巻き込んでいるという事実がある。特に、人間の生き方に口出ししている印象が強く、それがうつ病や自殺の増加につながっている点は見逃せない。このような時代にあって、精神療法への期待が高まるのはけだし当然のことであろう。特に、難しい理屈ではなく、人間の生き方にそっと寄り添ってくれる、やさしい治療法に期待したいのである。
そのような意味を含めて、今回は古代中国の思想家、老子の哲学を応用したメンタルヘルスの実践について述べることにする1)。老子については、筆者がその思想に魅せられてもう10年が経過し、おりにふれてこれを精神療法に応用できないかと考え続けてきた。いや、精神療法と言うといささか大げさに過ぎる。患者さんと語り合うための素材として応用できたら、と考える程度のことであるが、今回は「ジャッジフリー」という考え方を中心に述べる(今回示したジャッジフリー理論は、筆者が最近記した著作1)を基盤としている)。
そこで一冊しか無い老子の著述、道徳経を整理すれば、「弱い者が結局勝つ」「多くを望むな」「名誉にこだわるな」「自分を知れ」「物の価値は相対的」「自然に従え」などの格言が比較的知られている、と言えよう。これらの格言は、いずれも消極的、受け身的で、弱力性のニュアンスが強いが、弱いことが大切なのではなく、強い・弱いを問題にしないことが重要なのである。そこを具体的に示してみる。
精神科の外来患者さんとの対話、
「自分は能力が低いから、誰にも評価されない」
「あの人はズルくて要領がいいが、自分は不器用で損ばかりしている」
「友人達は充実した生活を送っていてうらやましい」
という思いを抱えた人が非常に多く、これらの考え方が、うつや不安を呼ぶ原因となっていることに気づかされる。
これらの根本的な原因はどこにあるのだろうか? それは「いつも他人と比べてしまっている」というところにあるのではないだろうか?
つまり、「他人と自分」という関係に悩み、必要以上に苦しめられている……。そういう構造が見てとれる。
この悩みに対して、筆者は老子の考え方を参考とした対策を考案した1)。それは「ジャッジフリー」という思考法を取り入れることである。ここで言う「ジャッジ」とは「判定する」「判断を下す」という意味の言葉であり、「何が正しいのか」「何が優れているか」などを決める、ということを含んでいるわけである。この「ジャッジすることを、意識的にやめる」というのが「ジャッジフリー」の考え方である。
実は、我々はさまざまな局面で、この「ジャッジ」というものをほとんど無意識にしてしまっている。優劣をつけ、勝ち負けを意識し、上に見たり、下に見たりしている。たとえば、
・お金がある人は幸せ。無い人は不幸。
・顔がいい人は幸せ。そうでない人は不幸。
・仕事で評価されている人は偉い。されていない人はダメ。
・友人が多い人は素敵。少ない人は寂しい。
・話が上手な人はカッコ良い。口べたな人はカッコ悪い。
こんな風に数え上げればキリがないほど、世の中は「ジャッジ」にあふれている。精神科のクリニックにも、こうした「ジャッジ」に苦しんでいる人が沢山訪れる。
そんな時、筆者は患者さん達に「自分で優劣をつけてしまっているだけではありませんか?」と問いかけ、「その行為をしている事実」をまず理解してもらうよう努める。そして、「ジャッジしないことの大切さ」をていねいに話すことにしている。
以上で、ジャッジフリーの考え方が分かっていただけたと思う。ジャッジフリーはもともと老子の考え方に基づく筆者の造語である。最後に、老子本人がこれをどのように表現しているのか、その一例を示して終わりとしたい。
「碌碌(ろくろく)として玉のごとく、珞珞(らくらく)として石のごときを欲せず。」
これを現代語で翻訳すると、「ダイヤモンドのような存在になったらそれでいい。石ころのような存在になったのなら、それもまたいい。それが自然の姿なら、受け入れて、ただ生きて行くだけ」。
文献
1)野村総一郎:人生に,上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える老子の言葉.文響社,2019
|