四谷ゆいクリニック 阿部 裕 困った事例ケース1ある時、日本にはほとんど通訳がいないマイナー言語の難民がやって来た。40歳前後の男性で日本語は全くできなかったが、日本人通訳はまたとない逸材であった。何の症状をもち、何に一番困っていて、どこをどう治療してほしいのかを、的確に通訳してくれた。それに対して、状態像と病名を説明し、薬物療法と精神療法が必要であるので、向精神薬を服用しながら定期的に通院すること、また薬剤の効用と副作用についても詳細に説明し、患者に安心を与えるよう配慮した。次の週も通訳は同行した。 しかし、2回目の外来診療が終わったところで、通訳者は突然、「私は3回目からは同行できません。私はある企業に勤めていて、有給休暇を取って通訳に来ています。これ以上有給休暇を取れないので、今日で最後です。」と言われた。治療者は言葉を失った。これだけ上手い通訳者がいなくなってしまったら一体どうやって診療が可能なのだろうか。しかしその時は、「はい解りました」という以外はなかった。その後、国際交流協会や外国人支援団体等、全国すべて手を尽くして探し回ったが、結局、通訳者を見つけることはできなかった。 このケースは、実は、母国出身でかなり通訳ができる方を、個人的に知っていた。しかし、その方の話を出すと、その方だけはやめてほしいと断られた。マイナー言語の人たちのコミュニティはあまり大きくない。だから通訳を使うにしても、通訳者が、守秘義務を含めた倫理的観念をかなり正確に保持している必要がある。医療通訳者がいない場合、家族、友人、時には子どもに通訳をお願いせざるを得ないこともあるが、それはできるだけ避けるべきである。このケースの場合は、結局、本当にやさしい日本語と、ジェスチャー、図解で今も何とか治療を続けている。 ケース2ある時小学校5年生の男児が、ヨーロッパから父の仕事で日本へやって来た。父は北欧出身の研究者で英語を使用しおり、母はスペイン語圏の研究者、本人はヨーロッパのインターナショナルスクールで教育を受けたため、英語とスペイン語しかできない。日本でインターナショナルスクールへ入れられるほど経済的な裕福がないことから、日本の小学校に入学するが、不登校気味になり異文化不適応でクリニックを初診した。 今の日本で、彼にいかなる支援が可能なのか悩んだケースであった。彼には3歳下の妹がいたが、妹は比較的速やかに日本の学校に適応していた。家庭で使われている言語は、英語、スペイン語、父の母語、日本語であり、この男児の文化アイデンティティを育てるためにどの言語に焦点を当てればいいのか困惑の連続であった。 一般的な子どもに言えることであるが、自分の気持ちをどの言語でもうまく表現できないとなると、行動に表出されるか閉じこもるかのどちらかである。この男児の場合は、時々登校した時の学校での暴力や家庭内の暴力行為が問題となった。母子の関係が強いために、まずは母親の母語であるスペイン語で男児と交流をもつことをネイティブカウンセラーが試みた。カウンセリングを行いながら、父親、母親と本人を入れて家族調整も行った。 9歳の壁とよく言われるが、男児は9歳を超えており、そう簡単に日本語を受け入れ るような素地は見えなかった。とはいえ英語教育を受けられる環境にもなかった。とにかくその段階では、男児の母語と考えられるスペイン語を支援しながら、少しずつ日本語や日本の文化や習慣を受け入れていってもらう方法を選択した。 このように今やグローバル化が先行する日本社会においては、一つの家庭内で何言語も話される時代になっている。しかし多くの子どもがバイリンガルやトリリンガルになれるわけではない。日本生まれ、日本育ちの日系ラテンアメリカ人の子どもでさえ、ダブルリミテッド、すなわち日本語も母語も両方とも十分に獲得できないことが問題になっており、そういう子どもたちをどのようにして教育で支えていけるのかが今日的なトピックスになっている。こうした子どもたちは単に教育だけの問題ではなく、同時にこころの支援を必要とすることが多く、日本語を母語としない人たちの精神科診療と無関係ではない。 おわりについ先日、日本にもコロナウィルスの非常事態宣言が出された。世界全体の感染者数は150万人を越え、死者数も9万人を越えた。アメリカ、スペイン、イタリアの感染者数は、それぞれ、46万6千人、15万3千人、14万3千人であり、未だ終息の兆しは見えていない。2018年末現在、日本在住の外国人者数は283万人である。 しかし、不思議に思うことがある。クリニックに来院する患者は概して日本人よりも冷静なのである。その理由を考えてみた。(1)他国と比較し感染者数が少なく、日本はより安全である。(2)すでに医療に繋がっており、困っても相談できる。(3)もともと交友関係は限定されており、行動制限を受けても困らない。(4)工場勤務の外国人労働者はこれまでも会社的経済状況で勤務の制限を受けてきた。(5)大企業の外国人人材や大学の学生、院生は日本人と同様に保護されている。(6)すでに生活保護を受けている外国人は困らない。上記理由が関係しているのではないかと推察している。 文章の締めくくりを考えながら、移民・難民を拒否する日本政府の方針とは裏腹に、グローバル化社会日本においてはすでに、日本人と外国人の間にほとんど差がないような多文化共生社会が、日々構築されてきている現状を身をもって感じている。
はじめに/多文化こころのクリニック |
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