国立精神・神経センター武蔵病院副院長 宇野 正威
2.病的なもの忘れ −アルツハイマー型痴呆−
もの忘れのうち、自分の体験を憶えておくこと、すなわちエピソード記憶の取り込みが強く障害されている時はアルツハイマー型痴呆初期の可能性があります。この病気の初期はこのような記憶障害を主な症状とし、また日付が分かり難くなる時間検討識の障害が特徴的です。しかし、その他の知能の低下は僅かですので健忘期とも呼ばれます。この時期は数年間持続します。その後、知的機能が漸次全体的に低下し、とくに理解力と判断力が低下すると日常生活上様々な問題が出現してきます。この時期を中期(混乱期)とも呼び、さらに数年続きます。さらに病気が進行し、言葉によるコミュニケーションがとりにくくなり、身の回りのこともほとんど出来なくなると末期(痴呆期)と呼ばれます。ここまで進むと、日常生活に全面的な介助を必要とするようになります。そのため、健忘期の段階でこの病気を診断し、その後の進行を少しでも遅らせるような対策を立てることが大切です。診断を行う時には、まず記憶機能検査によりこの病気特有の記憶障害があるかどうかを調べます。そうして、MRIとSPECT検査により、やはりアルツハイマー型痴呆の特徴とされる海馬領域の萎縮と脳血流量低下を明らかにする必要があります。
(1)記憶の検査
アルツハイマー型痴呆では、新しい情報、とくに“誰がいつどこで何をした”という、ニュース形式の情報の取り込みが著しく障害されています。それはいずれ“自分がいつどこで何をした”という‘想い出’の障害につながります。そこで、エピソード記憶のモデルとして物語再生検査と単語記銘検査を行います。物語再生は論理記憶とも呼ばれ、短いニュース形式の文章を話して聞かせ、その直後と30分後にその話をどの位憶えているかを調べるものです。アルツハイマー型痴呆初期の人は直後にはその内容を比較的憶えていますが、30分後にはほとんど憶えておりません。しばしば検査を受けたことすら忘れています。これを遅延再生の障害といい、この病気にみられる記憶障害の特徴です。単語記銘検査では10の単語を覚えてもらいます。1つの単語について線画と漢字あるいは仮名が書かれたカードを10枚順次に見せて記憶させます。これを5回繰り返しますと、健常者ではほとんどの人が少なくとも9単語を覚えます。アルツハイマー型痴呆初期では反復検査しても、10単語のうち半分位しか憶えられません。しかも、30分後にはやはりほとんど憶えておりません。このように、聞いた話あるいはカード上の文字の理解はよいのですが、それを憶え込めないことが問題なのです。
(2)画像検査
歳をとると脳がある程度縮むことはやむを得ません。脳の構造をMRIで調べると、健常者と思われる後期高齢の方たちでも多少とも脳の萎縮や異常が見られます。しかし、脳が全体としてバランスをとりながら縮む場合は心配ありません。一方、アルツハイマー型痴呆の人では、脳萎縮の目立つ人も、比較的目立たない人もいますが、早期から共通に見られるのは、側頭葉内側部の萎縮の強いことです。ここには海馬と海馬傍回と呼ばれる記憶機能に関係の深い部位があり、それが破壊されることが記憶障害の原因です。病気が少しずつ進行しますと、萎縮は側頭葉内側部だけでなく、その外側に拡がり、さらに頭頂葉後部にかけて萎縮が目立ってきます。そのため、記憶障害だけでなく、知的機能が全体として低下するようになります。SPECTで脳血流量を調べると、やはり早期には側頭葉内側部に、しだいに側頭葉外側部から頭頂葉後部の、さらには前頭葉の局所脳血流量の低下が見られるようになります。
(3)症状の進行の仕方
アルツハイマー型痴呆はゆっくりとした進行をする病気で、健忘期の段階は数年間続きます。そうして段々と、場所を憶える力が衰え、とくに新しい場所にいくと毎度になりやすくなります。これを場所見当識障害と呼びます。そうして、話を理解する力が弱くなり、また目的をもったまとまりのある行為をしにくくなります。この段階を混乱期と呼びます。記憶力が極端に落ちますと、話している間に少し前に話していたことを忘れるため、長い話や複雑な話を理解しにくくなるのです。一つ一つの言葉の理解は出来ても少し複雑な話になると混乱してきます。何人かの人と話し合っている時は、次々と話し手が変わって行き、話の内容も少しずつ発展していくため、その内容について行けなくなります。したがって、一家団らんの場でも言葉数が少なくなり、無口になる傾向があります。このようにして、介護者とのコミュニケーションも上手く行かなくなると、感情的交流も阻げられ、ぎすぎすした関係になり易いのです。
もう一つの問題は、ある目的をもった一連の行為をし難くなることです。たとえば女性の場合ですと、炊事を面倒がるようになり、ついには全く手を触れようとしなくなります。炊事のように、いろいろの道具を使用して行う一連の行為系列は知的な行為といえます。混乱期に入っても一つ一つの行為は出来ますが、全体の手順が分からなくなるため、複雑な作業は出来なくなり、何もしようとしなくなります。このような状態を放置すると、何から何まで介護者の世話にならないと生活できない痴呆期に近づいて行きます。
3.もの忘れは予防できるのか
1.もの忘れはなぜ起きるのか −記憶のメカニズム−
2.病的なもの忘れ −アルツハイマー型痴呆−
3.もの忘れは予防できるのか