ほりメンタルクリニック 堀 有伸 PFA: Psychological-first aidが支えになったこと近年災害精神医学の分野が確立しつつある。その中心にあるのが、急性期における対応の基本的な枠組みを示すものとしてのPFA: Psychological-first aidである[3]。その内容は広く支持され、全世界で普及している。その詳細を説明することは今回の小論がカバーする範囲を超えているが、その基本方針は「実際に被災地に足を運ぶなどして現場に寄り添い、生活の再建への協力、被災者と関係団体をつなぐことなどを重視し、精神療法的な介入に力点が置かれ過ぎないように心がける」ことである。PFA以前には、被災者がPTSDを発症することを防ぐために被災内容を語らせる心理学的危機介入デブリーフィングが重視されたことがあった。しかし、このことの有効性を示すエビデンスが確立されず、逆に望ましくない効果をもたらすことを報告する研究もあったことから、これは原則的には控えられるようになった。 2012年に東京から南相馬市に移住した当初の私は、PFAで被災者のcalmness(穏やかさ、冷静さ)を高めるように書いてあることに、内心不満を感じていた。なぜならそうすることが、政府や東京電力への被災者の正当性のある怒りや恨みの感情を抑圧し、妥当と思われる社会的な活動を阻害するように思えたからだ。 しかし放射線被ばくへの不安、避難指示の影響などの混乱が年の単位で継続した地域で暮らす中で、「生活の再建」が地域の中で暮らす臨床家にとって、最も優先すべき課題であることは、次第に骨身に沁みて納得できるようになった。生活の混乱の影響は脆弱性の高い人々に最も大きな影響を与える。私が移住後の最初の3年間勤務した精神科病院では、震災後に認知症を悪化させ、行動異常が強まった高齢者の対応に最も精力を注がねばならない時期が長かった。 地域の再建のため、さまざまな公的・私的なボランティア活動が積極的に行われたことの意義は小さくない。精神医療・保健・福祉の分野ではなごみ[4]の活動が特筆されるべきだろう。筆者自身も地域の人々と協力して小さなNPO法人を立ち上げて活動した。外部講師を招いての認知行動療法の講座や、後半は地域の再建活動に資するようにコーチングの講座などを開催した。その中で、もっとも評価されて賛同を集めたのは、地域の人々と毎朝ラジオ体操を行ったことだった。仮設住宅の近くで実施したのだが、ある時に「このラジオ体操のおかげで、仮設住宅に暮らす人と、もとからその地域で暮らす人が仲良くなることができた」と言ってもらえたのは、光栄なことだと思った。災害の影響が長く続く地域で、日常生活のルーチンと交流の場を提供できたと感じている。 原発事故による被災地で暮らしてつくづくと感じたのが、長期にわたって「日常生活の安定」が達成されないために、漠然とした不安が続くことによる消耗である。高速道路が開通する、鉄道の運転が再開されるというような出来事が起きる度に、心の底から安心が深まり、嬉しく感じることがくり返された。PFAが適応されるような災害の急性期は、通常ならば発災後3カ月からせいぜい6か月くらいだろう。しかし、原発事故の後にはそれが特殊な形で10年以上継続したのではないだろうか。ラファエルの震災後の時期についての分類で「ハネムーン期」と呼ばれるものが持続したのかもしれない[5]。地域社会全体では「復興バブル」という言葉が使われた時期もあり、通常の状況ではありえないような資本が復興のために投入された。精神科医の視点からは、顕在的には指摘されなかったものの、軽躁状態の増加を心配したこともあった。やがてそのまま被災地も新型コロナ感染症の流行(2019年以降)に巻き込まれるようになり、さらにローカルな水害(2019年)と2回の地震(2021年、2022年)による被害を経験した。途中でほとほと「疲れた」と感じたこともあった。この期間を自分が乗り越えることができたのは、精神医療の観点のみならず、地域生活の再建の重要性を教えてくれたPFAの内容に触れていたからだと思う。やはり長丁場を乗り切るためには、calmnessを大切にすることが重要である。
現在見えているもの南相馬市内の避難指示が出なかった地域で開業して診療を行っている私にとって、目の前の光景は一見平静を取り戻して見えるが、同時に内部の疲弊の大きさも実感している。そして、被災地に限らない日本の地域社会全体の課題である、高齢化と地域社会・経済の縮小の実態がこれから顕在化していくことへの予感がある。その一方で震災から10年以上が経過し、被災地に投入されてきたさまざまな支援が終了していくことも予想される。 診察場面では、数は多くないものの、震災時に経験したトラウマや喪失について扱う持続エクスポージャー法[6]のような心理療法を、何年も通院した後にようやく実施できる症例と出会っている。その一方で、治療を受けることなど考えずに、PTSD症状を抱えたまま地域で暮らす人々も少なくないことが推測されるが、現状ではそれに対する本格的な介入はできていない。複雑性PTSDの症例の治療を担当することもあるが、虐待やブラック化した職場でのパワハラが絡む場合には、地域社会全体が震災前から抱えていた否定的な課題に気持ちがとらわれることもある。 深刻で複雑な問題が同時に進行し、それらへの対応を続けることが容易ではないと感じられることも多々あった11年間だった。それを支えてくれたのは、それまでの精神医療の実践を通じて身に付けた中立性の意識と、精神科医としての規範の意識、またPFAやトラウマに焦点付けた認知行動療法などの知識や経験だった。同時にそれだけにとどまらず、その土地に暮らして仕事をする当事者として、職業人として、一般の生活者として、一人の主権者として、さまざまな問題についての自分の意見・立場を問い直し、自己規定することをくり返し行ったことが有用だった。まだ重要な仕事の途中であり、当面はこれを継続したいと考えている。 参考文献
はじめに/避難指示が出た地域と出なかった地域の差 |
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