武蔵野大学人間科学部 中島聡美 1.はじめに−あいまいな喪失とは?“あいまいな喪失(ambiguous loss)” は、Pauline Boss博士(現ミネソタ大学名誉教授、以下Boss)が作った用語であり、“(その喪失が)証明できないために、解決されないままとなっている不明瞭な状況” と定義づけられている1)。Bossは、1970年代にベトナム戦争で行方不明になった兵士の家族についての研究から、行方不明という物理的な不在が人間関係の境界のあいまいさを引き起こすこと、さらには認知症や精神障害の家族が感じている心理的な不在も、同様の反応をもたらすことを明らかにした2)。 あいまいな喪失には2つのタイプがある。1つは、「物理的に存在しないが、心理的に存在している」状態(タイプ1)であり、Bossは、“さよならのない別れ” と呼んだ3)。典型的には犯罪や戦争で行方不明になっている状態である。アメリカの同時多発テロ事件でのワールドトレードセンタービルの爆破や飛行機事故などで、遺体が見つからない場合は、家族にとっては死が確認されない状況であり、あいまいな喪失となる。また、あいまいな喪失は、このような悲劇的な出来事だけでなく、日常的にも存在している2)。例えば、離婚によって子どもが父親と別れてしまった場合、その子どもの家の中にはもはや父親はいないが、子どもが心の中で父親の不在を否定し続けるような場合はタイプ1のあいまいな喪失の状態にあると言える。 もう一つのあいまいな喪失のタイプは、「物理的には存在しているが、心理的には存在していない状態」(タイプ2)である。このタイプ2のあいまいな喪失は「別れのないさよなら」と呼ばれる3)。典型的には、親が認知症になる場合があげられる。その場合、目の前の母親の姿は変わらなくても、自分に料理をつくってくれたり、頼れる存在ではなくなり、進行すると子どものこともわからなくなり、以前の母親ではなくなってしまう。子どもにとっては母親はすでに失われているが、その存在はあるために、失われていると認識することができない。このような喪失は、認知症だけでなく、家族が頭部外傷を負ったり、アルコール依存症などで以前とは別人のようになってしまった場合も該当する。また、より日常的なレベルにおいてみられるタイプ2の喪失は、父親がワーカホリックで、家族に対して父親としての機能をほとんど果たさないような場合が該当する。この2つのタイプのあいまいな喪失は、引き続いて起こる場合もある。戦争で父親が行方不明になってしまった(タイプ1のあいまいな喪失)家庭で、母親が経済的に支えることで一杯になり、子どもとかかわることができなくなったとしたら、その子どもは以前の母親を失ってしま ったと感じるだろう(タイプ2のあいまいな喪失)。 あいまいな喪失は非常にストレスフルな状況であり、その影響はきわめて深刻である。 Bossは、あいまいな喪失はトラウマ的なストレスだと述べている2)。その理由は、あいまいな喪失は、解決や終結することが不可能であるため、人々はその状況に耐えられず、心理的な苦痛や、混乱、ショック、機能の停止状態に陥るからである。あいまいな喪失で見られる心理反応は、絶望、無力感と、それに引き続く抑うつである。また、両価性(ambivalence)はあいまいな喪失の特徴である。認知症の母を持つ娘は、母親を愛する気持ちと同時に、子どもの顔さえわからない母親に深い絶望と悲しみを感じ、このような状態が続くことに対して怒りを覚えるかもしれない。このような両価性は、罪悪感、不安、機能停止(immobilization)を引きおこす。機能停止は、心理的レベルでも社会的なレベルでも生じ、あいまいな喪失に極めて特徴的な反応だと思われる。例えば、行方不明の父親がいる家庭では、父親は帰ってくるかもしれないから、年月が経っても引っ越したり、家庭の環境を変えたりできなくなる。変化させることができないため、新しい人間関係を持つことや仕事や学業のために家を離れることができなくなるということが起こる。あいまいな喪失はまた、家族や周囲の人間関係、コミュニティとの関係にも影響を与える。家族の境界や役割があいまいになり、コミュニティと疎遠になることがある。家族の行事を行わなくなることが典型的にみられる。正月には母親がお雑煮を作ってくれて、家族が新年を祝うことが慣例であった家庭で、母親が認知症になってしまうと、お雑煮を作らないだけでなく、正月を祝うことそのものを止めてしまうようになる。あいまいな喪失では、特にその人の存在に変わって誰かが行うことの葛藤が生じやすく、行事そのものが停止されがちになるのである。
1.はじめに−あいまいな喪失とは? |
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