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こころの健康シリーズ\ 現代の災害とメンタルヘルス

No.11 向き合えない人々と心のケア 〜13年後に語れること〜

NPO法人相双に新しい精神科医療保健福祉システムをつくる会
相馬広域こころのケアセンターなごみ
米倉一磨


はじめに

 筆者は、福島県南相馬市に住む看護師である。東日本大震災で起こった福島第一原子力発電所事故によって、私が10年間在籍していた精神科病院が休診となった。その後、地元の有志とともに福島県立医科大学心のケアチームへボランティアとして参加し、同活動を相双保健福祉事務所の職員として継続した。震災の翌年からは、相馬広域心のケアセンターの職員として計13年間、災害支援を続けている。本稿では被災者であり支援者でもある立場から、災害後の支援者の心の問題をテーマに述べていきたい。

1.支援者が支援者に翻弄される

 福島県相双地区では、福島第一原子力発電所事故後、人口約20万人のうち一時約16万人(原発から30キロ圏内人口は約12万人)が県内外に避難した。福島県では、心のケアは、福島県立医科大学心のケアチームが活動を開始し、いわき市、福島市、相馬市で活動した。それぞれの地域には避難所が開設されたが、相馬市は他地域と違っていた。それは、相双地区は、地震、津波、原発事故に加え、精神科医療福祉がすべて一時休止となったことに対応しなければならなかったからだ。相双地区の北部30キロ圏外で、比較的インフラの被害が少なく他市町村の受け入れが可能なのは相馬市だけであった。最初の活動は、3月26日に開設された公立相馬総合病院の臨時外来であった。のちに臨時外来はメンタルクリニックなごみへ、そしてアウトリーチや集団活動、支援者への支援、保健予防を中心とした啓発活動などはNPO法人相双に新しい精神科医療保健福祉システムをつくる会(以下なごみ)を設立し、相馬広域こころのケアセンターが担うことになった。後になごみは、訪問看護ステーションなごみや地域活動支援センターなごみCLUBなどの事業を拡大していく。

 福島県立医科大学心のケアチームは、当大学の医学部精神神経医学講座と看護学部精神看護学領域の教員によって組織され、当時の精神神経医学講座教授の丹羽真一氏が中心となり全国に呼び掛け集まった支援者を、看護学部の教員(現なごみ理事長の大川貴子ら)がコーディネートし、相双保健福祉事務所の保健師と共に活動した。震災直後は、放射能への影響が不確かな中、ボランティア、各都道府県、病院、学会などのチームが参加した。ところが、当時、南相馬市は原発から30キロ圏内外にまたがる市町村であったため、「南相馬市だけは入れない」という支援チームもあった。福島第一原発からの距離などによって県単位、地区単位の組織の判断基準(多くは放射能の健康被害への補償問題)が違っていたため、南相馬市から南の地区を支援することのできる支援者は少なかった。筆者は原発から30.3キロの地点に住んでいた。「この地域に住んでいる医療者がいる中で、どうして支援が受けれないのか」と考えると、ただ悲しくなり怒りがこみあげてきた。

 震災から約一ヶ月後、ある県から派遣されたD-MATの医師が、相馬市の保健センターで毎日行われていた災害支援者の会議で「私の災害支援の経験から、災害支援チームの会議には、地元の医師会長に毎日きてもらうべきだ」と発言した。それも一理あるが、会議の目的は、それぞれのチームの情報共有であり、この会議では、保健センターの所長(医師ではない)が毎日出席しうまくいっている。このD-MATの医師の発言の意図は、自分がそうしたいからそうして欲しいという欲求や「べき論」が勝っているように思えてならない。「ここまできて自己発揮か」と、支援者のやりたい感情を目の当たりにした。

 県外から来た多くの支援者は、住民が話す方言に慣れるまで少なくとも3日はかかる。例えば月曜日に被災地に入り、水曜日にはどうにか心理状態を判断するために必要な形容詞を理解できるようになる(さすけねー=大丈夫、やんだくなったは=いやになる、など難解なものが多い)。しかし、多くのチームは、5日後の金曜日に帰ってしまう。月曜日に方言講座を開いても、実質3日後の木曜日と金曜日しか1馬力の戦力にならないのである。中には、長期的な支援の必要性を考えて、ローテションを組み何度も支援をした個人もいた。なごみには10年以上支援をしてきた支援者もいる。被災者の支援でもあり地域の支援、そして私たち支援者への支援でもあった。お互い、必要であることできることを確認しながら、なごみスタッフを一人前にしてくれた。特に、医師の中澤正夫氏は地元の事例検討会や訪問同行、地元の勉強会の立ち上げ(相馬市のメンタルクリニックなごみ院長蟻塚亮二氏が代表をつとめる震災ストレス研究会など)など支援者支援の支援まで担ってもらった。

 心のケアチームは3ヶ月がすぎると徐々に減っていった。阪神淡路大震災では、約3ヶ月で現地支援者が平常運転に戻ったという前例があったことや、支援者を長期に派遣するといったことを想定していなかったからであろう。3・11から約3ヶ月後、住民や家族から相談の電話が心のケアチームに入る。このとき精神科医療機関はいくつか再開されていたが、混乱の中で、すべての患者へ情報を伝えることは困難であった。結果、治療中断者が増加した。特に長年規則正しく服薬を続けてきた患者の悪化が目立ってくるようになったのである。この時私は、一ボランティアから、ようやく保健所の臨時職員として採用された。治療中断者は、近くに精神科病院がないので、50キロ以上移送する必要性が出てくる。そこで、症状が強く他害の可能性の高い患者は、通常使用しない拘束帯を使用し、オムツをかけて移送することになった。日替わりのケアチームには精神保健指定医がいることが多く、措置判定にも携わってもらい、移送先は福島県立医科大学神経精神医学講座の丹羽真一氏、矢部博興氏の尽力により何とか決まり、さらに他県から警察官の応援もあり、警察官が保護し保健所の職員が移送した。このようなことが連日続いた。特に南相馬市では避難を拒む精神疾患が疑われる住民などもおり、このような未治療、治療中断者の対応に翻弄された。終わりの見えない毎日に、「なぜこの時期に、支援者が去っていくのか」と、今思うと悔しいばかりである。

 災害支援は、多くの支援者がいる時期は、必ずしも支援者を満足させる仕事があるわけでもない。被災者の名簿の整理なども重要な仕事のはずであるが、支援者の中には、コーディネーターが割り当てた仕事に不満を言ったりする者や、被災地で感情が高ぶり使命感が上回りしすぎるのか、自身の災害支援論を饒舌に語るようなものもいた。このような支援者に合う仕事は何か、知恵を絞る必要が出てくる。つまり「現地の支援者の仕事は、外部の支援者のやりがいをつくる事」になってしまう。また、事前に「来所相談しかできないので」と、やってきた支援団体もあったが、災害の現場で、仕事を選り好みする支援者は一体何者なんだろうと腹立たしくなった時もあった。

 このような口惜しい体験から、想定外の災害であっても現地から正しい情報を支援者間で共有し、コーディネートできる第三者が必要であること、そして、災害の規模に応じ、被災者、現地支援者の増減、疲弊度に合わせた中長期支援計画を随時みなおすことが必要であると思う。こうした苦難な時期において、阪神淡路大震災を経験した医師の中井久夫氏は、「地元で奮闘しているこころのケアチームに温泉でもいってゆっくりして欲しい」と現金で寄付をした。この意図は、「ストレスが過剰な状態で、現地の支援者が休息もとらずにいるとつぶれてしまう」ということであろう。実に核心をついたユニークで温もりのある支援であったが、筆者はまだ温泉へ行ってはいない。

 

2.ストレスのはけ口がない行政職員

はじめに/1.支援者が支援者に翻弄される
2.ストレスのはけ口がない行政職員
3.二つの恐れ
4.支援者自身の心のケアと向き合えること/おわりに

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